第436回さいたま三愛病院糾弾ブログ/番外編・圓生の落語枕で、「新宿は田舎、目黒はもっと田舎」というのを聞いて、ふと、「駅から三里」の柿の木坂を思い出した巻

(数日前の話の続きですが)六代目圓生の落語CDを聞いていて、『淀五郎』の枕に「目黒団蔵」のことに触れて、其処で、「(自分が住んでいた)新宿は田舎、目黒はもっと田舎」と云っているのを聞き、今昔の感に堪えませんでした。録音は昭和41年、つまり今から約50年前で、まあ、50年も前なら「今昔の感」も当然かなと、「時の流れ」を妙に納得させられました。今日は、其の芸談『淀五郎』の「枕」の一部文字起こしです。実は今日、東京高裁で(三愛病院との控訴審の)初公判があって即結審でした。少なくとも、原告の私は嘘を言っている訳ではなく、主治医も看護師についても、云われたこと・されたことを正直に言ってはじめた裁判なのですから、せめて私だけでも(正式な名称を知りませんが)「原告の証人尋問」だけでもして貰いたかったのに、それをしてくれずに結審です。ちょっと(おおいに)、トホホなのです。テレビ報道では、午前中はものすごい警戒振りでしたが、午後も4時なのでそれほどでなく、建物のなかに入ることが出来ました。それでも、建物を出る時にはまだ大勢の警官がいて、まだ、平田信のオウム裁判は進行中のようでした。私は帰宅してから、(また昼夜逆のような生活に戻っているものですから)夕食をとって、即23時に目覚ましをかけて爆睡し、今これを書いています。どうもシンデレラタイムまで十分に時間が無く、今日は、枕の「今昔の感」の一部の文字起こしで(まことにお愛想無しですが)オヒラキです。

ーQ始ー
四代目の団蔵は目黒に住んでいたので人呼んでこれを「目黒団蔵」といったそうです。まあ今では目黒というところもずいぶん繁華になりましたが、むかしはまあこの、目黒なんてえと大変な田舎のように思っておりましてネ、私はまあ、小さい時から新宿におりまして、むかしは、うちはどこですと聞かれて新宿でございますてえと、ああそーですか大変ですねーという同情的な言葉をかけられまして(笑)、ええー、まあ四谷まではこれは東京のうちなんですが、新宿てえのはあれは東京ではないんですから、ええー、府下豊多摩郡内藤新宿字角筈という(笑)、どうも大変、少し大きく書くてえと葉書なんぞははみ出して書けなくなる、ずいぶん長い名目が付いていて、ですからその時分目黒に住んでいるといえば、はあー、大したところ、田舎にいるんだねえなんという、そこで、「目黒団蔵」という名がのこっているのでしょうが、
ーQ終ー
と枕に云うのですが(此処までは文字起こしを済ませていました)、以下に、平成23年12月18日の弊欄 にリンクを貼っておきます。いま西新宿といわれている場所にあった、避病院が「東京都立豊多摩病院」といっていたのですから(「多摩」というと今の語感でいえばエライ田舎と思えるので)驚きです。以下一部コピペ引用しておきます。

ーQ始ー
これまで古い質札を画像で添付しましたが、今日は、其の「伝染病の国家的届出制」の象徴ともいうべき「避病院」の領収書です。小滝橋から淀橋のやっちゃ場に行く道の右側に、むかし避病院東京都立豊多摩病院 がありました。正式(法的)には「伝染病院」というのだそうですが、其処に、上の妹が、疫痢か赤痢で入ったことがあるのです。昭和30年の其の当時でも、疫痢・赤痢では大概はごまかして入らなかったと聞いたことがありますが(本当はどうか知りませんが)、ウチのオフクロは真面目なものだから、9日間入院したのです。其の入院費用は1800円、1日分200円という勘定になります。今日はこれで失礼します。
ーQ終=

そんなことで、ふと(娘と娘のお友達が其の付近にしばらくいた)、「柿の木坂」の歌を思い出して、歌詞にある柿の木坂とはどこのことかと思ったことを思い出してググッタ結果、「津和野街道ブログ」というのに、広島県の大竹市らしいと知りました。そこで、其のコピペでオヒラキです。ああ其の前に、東京の柿の木坂のコピペを先ず引用しておきます。

ーQ始=
当時の柿の木坂は周囲の農家や商人が大八車に荷物を載せて行き来する為に使われ、急で長く続く坂を登るのは慣れていても大変な作業であった。その為、登坂中にはスリに荷物を盗まれる事も多く、積荷を荷台から抜き取る行為が「引っ掻き抜く」と呼ばれていた。それが転じて「掻き抜き坂」となり、明治の初め頃には「柿」が当て字として広く使われるようになり現在の地名の元となった。尚、柿の木坂を登り切った環七通りとの交差点には「岡田屋足袋店」という創業明治19年の足袋店があり(平成14年廃業・平成18年解体)敷地内の目黒通り面してあった高さ10メートル程の柿の木が通りから目立っていたために地名と結びつけて説明される事が多くあったが、これは1920年前後から後の時期に植えられたもので地名とは無関係である。また、柿の木坂には多くの柿の木が多く存在していたからという説があるが、これはこの地域が大規模再開発等の対象とならずに古い景観が多く残った事によるものである。昭和初期より前の東京において柿の木は非常にポピュラーな樹木であり、柿の木坂周辺において特別に多くの柿の木が散見されていたという記録は無い。その為、地名が実際の柿の木や柿を由来としているという説は誤りである可能性が高い。柿の木坂の由来に関する足袋店店主の証言は、目黒区立中央町社会教育館に保管されている「足袋のおもいで」という記録書籍にも一部が記述されている。
ーQ終ー

ー(以下津和野街道ブログ 引用)。
広島県大竹市出身の作詞家、石本美由起さんが亡くなられ、中国新聞にこんな記事が出ていました。
柿木は大竹市の石本美由起さんの家の木、坂道は広島県廿日市市から旧佐伯町への汐見坂、明石峠(津和野街道)をイメージされたものだそうです。
そういえばちょうど「駅まで三里(12km)」くらいです。(明石峠からJR廿日市駅まで)
春には 柿の花が咲き
秋には 柿の実が熟れる
柿の木坂は 駅まで三里
思い出すなー ふる里の
乗合バスの 悲しい別れー
ー(以上「津和野街道ブログ」引用)。

テナことでオヒラキに。やっとシンデレラタイムに間に合ったようです、フーツ。午前中に新しいパソコンの「ライブ・メール」の設定のし直しをして、いっぺんに300以上のメールを受信しました。それまでは、なんだかモヤモヤした感じがあったので、ちょっと「宿便」解消といった気分でおります。也。

平成26年1月17日00時10分

さいたま三愛病院を糾弾する
コードネーム0213231
(追うに意味ありto三愛)