第418回さいたま三愛病院糾弾ブログ/番外編・日本最初の公開図書館「芸亭」の石上宅嗣が光明皇后の阿閦寺と同名の寺を作ったのか?まさかねえとヤフー知恵袋に質問した巻

まず補足ですが、歌川 国芳の『木曾街道六十九次之内・赤坂・光明皇后』は早稲田古典籍DBの「第58コマ」ですので、リンク先に跳んで画面下部のコマ数の「窓」に半角で「58」と入れて下さい(※一足飛びに跳ぶのではなくて、各駅停車でゆっくり見てゆくのもいいのですが、ナニシロ58番目のコマですから遠すぎますので時間の無い方は「58番目」に飛んで下さい)。そうすれば、該当の画面が出てきます。(昨日話題にした)図書館へのレファレンスをまとめた「レファレンス協同DB 」では、「光明皇后」関係の質問は8件だけで、残念ながら、修身教科書についての問い合わせは含まれていませんでした。また最後に言及した石上宅嗣のウィキペディアの記述から、ヤフー知恵袋に以下の質問を投稿しました。

ー(以下ヤフー知恵袋 引用)。
石上宅嗣が創建したという阿閦寺についての質問です。昭和5年に発行された『石上宅嗣卿』に、引用書目として『元享釈書第十八』の「皇后光明子の条」をひいて、態々「編者曰」として其の阿閦寺と「石上宅嗣卿が創建
せりと続日本紀のいふ阿閦寺とは、同一なりや否やは定かならず。説をなすもの種々あれども参考の為この一文を載す」と注記していますが、其の本が発行されてから83年もたった今、「同一なりや否や」についての研究はどの程度まで進んでいるのでしょうか、教えて下さい。

ウィキペディア「石上宅嗣」の項目を見ると、「仏教仏道にも通じ、『浄名経讃』『念仏五更讃』を著している。旧宅に阿閦寺(あしゅくじ)を建立し、その片隅に書庫を設け、これを"芸亭"と名付け、主として"仏教"経典以外の外典(げてん)を一般に公開した(『続日本紀』巻36天応元年(781年)6月辛亥24に伝記あり。この芸亭は日本最初の公開型の図書館とされている」とあります。

質問者は(手書きの場合、ごく若い時から)「正漢字」で書くのを常としているのですが、従って日本最初の公開図書館「芸亭」も若い頃は「藝亭」と書くものとばかり思っていましたが、「うんてい」の「うん」は(略字とばかり思っていた)「芸」を書くのが正しいと知って、(「簡単な構造の字」の方が正式とのことなので)驚いたことがあります。

此の質問の本『石上宅嗣卿』は、本日(12月29日)付の弊「さいたま三愛病院糾弾ブログ」の文中で「国会図書館デジタル化資料」にリンクを貼っておきましたので参考にして下さい。なお今日の23時59分59秒を過ぎてシンデレラタイムになったら、(昨日県立図書館から借り出してきた)『大日本佛教全書』第149冊所収の『寂照堂谷響集』から「光明皇后」の条、「伽藍を構え阿閦寺と号す」のくだりを画像として添付しますので併せて参考にして下さい。
質問日時:2013/12/29 07:27:20
解決日時:2013/12/29 22:57:21

〔回答〕
〔第一回答〕
d_gabacho0044 さん
国史大辞典の「阿閦寺」の項によれば
その寺址は今日一条通りに北面した左京二条三坊九・十・十五・十六坪の小字「堂の前」が旧址といわれ、法華寺の東南にあたる。建久三年(一一九二)の『建久御巡礼記』以降、光明皇后浴室垢穢伝説に発展転化されて光明皇后建立ともいわれ、あたかも当寺が二寺並存した観を与えるが、法華寺の近傍に寺址を伝えていたためである。
と解説されています。阿閦寺が法華寺のすぐそばにあったため、後世、光明皇后の施浴伝説にとりこまれた、という結論に落ち着いているようです。
回答日時:2013/12/29 14:49:34

〔回答をBAに選んでのコメント〕
d_gabacho0044さんから回答を頂きありがとうございます。押し詰まった年末の12月29日では公立図書館はどこも休館している筈なのに、d_gabacho0044さんから即日に回答を頂き、普段、BAは時間の流れにまかせているのですが、今回は勝手ながら選ばさせて頂きました。
コメント日時:2013/12/29 22:57:21
ー(以上ヤフー知恵袋引用)。

なお今日の画像は、運敞『寂照堂谷響集』(名著普及会・大日本佛教全書第149冊)74頁の「光明皇后」のくだりです。でも、国会図書館・電子化資料で「寂照堂谷響集」をググッテも 、ヒットしないのを不思議に思っています。也

平成25年12月30日00時10分

さいたま三愛病院を糾弾する
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(追うに意味ありto三愛)