第119回さいたま三愛病院糾弾ブログ/番外編・徳岡孝夫氏の巻頭随筆で思う巻・其の1


昨日のヤフー知恵袋への「吉祥寺強盗殺人」についての質問 には1件回答が付きましたが、犯人の「預金通帳に1千万円」という事実については回答を貰えていません。他人名義の複数の「1千万円の通帳」があったというネット情報もあって、何が本当なのか今のところ分かりません。より正確な(筈の)新聞を読むことにします。



また5日前(3月1日)に、 昭和初年のタクシーについての質問をヤフー知恵袋に投稿しました 。それに対して直ぐno_881さんの回答を貰って、其の素早さに驚きました。しかも即、文献として大宅壮一が挙げてあって、なおかつ(「タクシーの2人制」についての質問に)「助手席」が返って来るなどビックリです。しかし、ウィキペディア「日本のタクシー」によれば、最初のタクシーは1912(明治45)年だそうですから、恐らく其の当時から、運転席の隣の席を「助手席」といっていた筈で、其の意味でいえば、『デジタル大辞泉』の「じょしゅせき・助手席=自動車で、運転席の隣の席。/昭和初期、円タクの運転見習い兼客引きである助手の席であったことから」という記述が問題になろうかと思われます(※但し石井研堂の『明治事物起原』には「タクシー」の項目はありません)。



ー(以下ヤフー知恵袋引用始め)。
昭和初年のタクシーについての質問です。徳岡孝夫氏の随筆に、「昔のタクシーには運転手と助手が乗り」とあって、乗務員2人体制だったことが書かれていました。其のことについて書かれた他の資料を教えて下さい。


「新潮45」2013年1月号の『巻頭随筆』で徳岡氏は大阪の例として述べておいでですが、東京でも、タクシーは「乗務員2人体制」だったのでしょうか、教えて下さい。


(徳岡氏の随筆を興味を持って拝読していまして)氏の話を「嘘」と思っている訳ではなく、(バスの「運転乗務員2人体制」は聞いたことが無いので)それより小さいタクシーの「2人体制」にホンマかいなと思ってしまうのです。


「円タク」と同じ時期のことと思えますが、「タクシーの2人体制」は常態だったのでしょうか、これについて書かれた(あるいは写された)資料を教えて頂ければ幸いです。


あるいは、不景気ゆえの「2人体制」(今でいう「ワークシェアリング」)とも思われ、何時頃まで「タクシーの乗務員2人体制」は続いたのでしょうか、お伺いします。


〔第一回答〕

no_881 さん

大宅壮一に、「円タク助手の一夜」というルポルタージュがあります。
昭和4年に発表されたものです。
東京の夜を、一晩円タクの助手となって走りながら
乗客のようすを書きとめたものです。
助手の存在をいぶかしむ人はいなかったようなので、
東京でも2人体制は常態だったのではないでしょうか。

http://kotobank.jp/word/%E5%8A%A9%E6%89%8B%E5%B8%AD
辞書にこんな記載がありました。

http://www.weblio.jp/content/%E5%86%86%E3%82%BF%E3%82%AF%EF%BD%87%E...
こんなのも。


〔補足質問〕
no_881さんから早速回答を頂いて、なかなか面白い資料を教えて貰って、やはり、聞いてみるもんだなあと思いました。御礼申し上げるとともに、もっと他の資料のご教示頂ければありがたいのでBS選びはご容赦願っておきます。お礼方々お詫びと再度の御願いまで。


質問日時:2013/3/1 19:13:17.
残り時間:3日間.
補足日時:2013/3/1 22:16:58.
回答数:1.
閲覧数:79
ー(以上ヤフー知恵袋引用終り)。


テナ訳で、今日の画像、「新潮45」2013年1月号の徳岡孝夫氏の『巻頭随筆』をアップしてオヒラキです。也


平成25年3月6日04時20分


「二重殺人病院」

さいたま三愛病院を糾弾する

コードネーム0213231

(追うに意味ありto三愛)



※〔追記:04時34分〕どうしても楽天ブログでは画像が添付出来ない為、急遽、アメブロでアップします(本文も「下書き保存」が出来なくなってしまったので、アメブロで本文を作成して楽天でコピペ公開しました)。
「追うに意味あり」アート引越センターへん=別題を 「狒狒爺爺 (ひひジジ) の 覆う非位の非々を追う日々 」に改題