第215回アート引越センター社長への公開抗議・妹告発シリーズ78・山下政三氏のトンデモ本『鴎外森林太郎と脚気紛争』こきおろしの巻(其の廿四)


坂内正氏の『鴎外最大の悲劇』(新潮選書)に教えられて、小島憲之氏の『ことばの重みー鴎外の謎を解く漢語ー』(新潮選書)を読みました。ついでに同書が「講談社学術文庫版」になったのも読みました。ムロン冒頭の『第一「赤野」・『航西日記』に見る鴎外の”剽窃”』は久し振りに(読んで)「血湧き肉躍る」本でした。



しかし今言いたいのは、おしまい近くの「第十・暗愁」の「博文、森槐南そして安重根」。実は私は、此の安重根の書がある(あった)、笠岡の浄心寺に、幼稚園時に、数ヶ月身を寄せていたのです(昼時になると牛乳を飲んで「お昼寝」したのを覚えています)。なんでそういうことになったのか、オヤジもオフクロもいない今(しかも浄心寺の前住職も亡くなった今)、もはや知るすべがありませんが、そういう「聞いておけばよかった」ことがたくさんあることに気が付きます。ネットで、「安重根・浄心寺」で検索したら、現住職(前住職の息子さん)が「安重根の書」を竜谷大学に寄贈されたとのことで、喜んでいます。現住職と私は、同じ引揚船で日本に帰って来た「同志」なのです。浄心寺 にリンクを貼っておきますのでご覧下さい。前住職とウチのオヤジとは大変に親しい関係で、従って、私が数ヶ月転がり込んだこともあったのです。おじいさんが書をよくし前住職もいい字を書かれましたが、やはり、「安重根の書」は特別ですね。(以下は正確ではないかも知れませんが)いわば死刑囚の教戒師のような立場で、前住職の(たしか)兄弟の僧侶が(安重根の立派な応対に感動していたこともあって「書」が彼に贈られて)浄心寺に残っていたのでした。韓国が景気のいい時、(韓国にとっては「国宝」といっていいものですから)数億円で譲ってほしいといって来た人もあるとか聞いたことがあります。現住職が大学に寄贈されたことを知って、いいことをなさったと喜んでいます。※※リンク先によれば、「寄贈」ではなく「現住職の津田雅行さんが1997年に龍谷大学に寄託した」とのことです。以上訂正しておきます。




サテ、坂内正氏の『鴎外最大の悲劇』(新潮選書)です。25頁に、次の如き文章があります。--(以下引用)。

『航西日記』はこのあと日を追って十月十一日のベルリン到着までを誌す。だが、文芸的にも高く評価されてきたこの紀行文が、実は岩倉具視の米欧視察団に同行した旧佐賀藩士久米邦武の『米欧回覧実記』に剽窃まがいにまで依拠したものだったのを明らかにしたのは著名な国文学者の小島憲之であった。氏は他に類例のない普通名詞「赤野」の探索から、『航西日記』がそれに十年遡る久米の『米欧回覧実記』に多く依拠したものであることを突きとめた。小島は「同書からの引用を断わることのなかった鴎外の態度は、時折り、小説や論文の剽窃問題で揺らぐ現代のできごとであったならば、まさしくその一例とみなされ」なければならないものであったという。林太郎の依拠性は投書家時代から晩年の歴史・考証史伝物まで通してのものであった。なかにはその典拠出典が後になって明らかになったものも多い。鴎外文学の巨きさはいくらかはこの種の緘黙にもよっている。

小島はさらに『舞姫』冒頭の主人公が前に出版して世評が高かったという紀行文についての「心ある人はいかに見けむ」という一節に、先人の書に剽窃まがいにまで依拠した事実を指摘されることへの作者の内心のビクつきと誰かに暴かれた場合の備えをみている。深読みととる向きもあろうが、このような備えと小心さは以降みていくように一見大胆な彼の論文・述作に屡々みられるものであった。ーー(以上引用)。


小島氏の「第一『赤野』」の最後の4頁を、新潮選書版から画像としてアップしておきます。私だって、『米欧回覧実記』の初版本を持っていたのですが、

(いま「日本の古本屋」で検索したら、25万2千円で出ていますが)実をいうと(情けないながら)ただ持っていただけで真面目に読んではいなかったのです。ムロン、妹の「干殺し作戦」で「兵糧なし」なのですから「整理済」です。小島先生が指摘する、「『舞姫』冒頭の主人公が前に出版して世評が高かったという紀行文についての「心ある人はいかに見けむ」という一節に、先人の書に剽窃まがいにまで依拠した事実を指摘されることへの作者の内心のビクつきと誰かに暴かれた場合の備えをみている」のは、坂内氏は(少し遠慮して)「深読みかも知れぬ」と云っておいでですが、イヤイヤ、小島先生の仰せに全面的に(私は)賛成します。つまりね、鴎外だって、(私が運営している3ブログのタイトルにあるように)「ナメタライカンゼヨ」なのです。従って、今日の「オマケ画像」は、末延芳晴の『森鴎外と日清・日露戦争』(平凡社)の74~75頁。鴎外がドイツ留学中にオペラに行った回数を「数十回」と書いているのについて、末延氏は(ハッキリと)「鴎外は、すこしくらいははったりをきかせても、わかるものかという気持ちで、『数十回』とオーバーな数字を挙げたのではなかろうか」と云っていますが、全面的に賛成です。


今日、ヤフー知恵袋に質問投稿をしました 。以下に、コピペ引用しておきます。今は回答がついたようですからリンク先に跳んで下さい。--(以下引用)。

鴎外は(『鴎外全集年譜』によれば)生年をごまかして「明治七年1874(十三歳)/下谷和泉橋藤堂邸跡の東京医学校予科に入る。此時願書に萬延元年(1860)生となす。以後公には之に従ふ」とあります。

此の名高い「詐称入学」は、(門外漢の私だって)承知していますが、ソモソモの「入学要項」のようなものは、どの資料を見ればいいのでしょうか教えて下さい。入学した東京医学校予科は公的学校ですから資料は記録されていると思うので教えて下さい(※公立図書館の全集を利用していまして、月報が欠けているのが多く、ひょっとしたら其の「欠」に参考資料として載せられているのかも知れませんが)。

なお、小島憲之氏の『ことばの重みー鴎外の謎を解く漢語ー』(新潮選書)108頁には、白楽天「慈恩塔下名を題せし処、十七人中最少年」、帳籍「曲江院裏名を題せし処、十九人中最少年」を挙げていますが、「下限を設けない試験制度」(つまり「受かると思うなら受けてご覧誰でも受かったら採用するよ」)はかなりいい制度と思うのですが、(科挙に限らず全世界的に)「下限を設けない試験制度」の状況はどうなっているのでしょうか、併せてお伺いします。

時々、「小学生が合格!」といったニュースがありますが、(恐らくそれは)「下限のない試験制度」だと思うのです。

質問日時:2012/6/24 11:40:28




平成24年6月24日20時30分



(「物外」ならぬ)方外忘機・

守方外こと

コードネーム021320123

(追うに意味ありtoアート引越センター)
又の名を(イギリス訛りで)today
アート糾弾ひつこしセンター」。




「追うに意味あり」アート引越センターへん=別題を 「狒狒爺爺 (ひひジジ) の 覆う非位の非々を追う日々 」に改題



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