第214回アート引越センター社長への公開抗議・妹告発シリーズ77・山下政三氏のトンデモ本『鴎外森林太郎と脚気紛争』こきおろしの巻(其の廿三)




上記の「廿」を入力しながら、麻生元首相が当時、(此の「廿」が理解出来なくて)「廿十」と書いたとかの報道を思い出していました(※しかしホントかどうかは保証の限りではありません。)。今日も、ヤフー知恵袋に質問投稿しましたので 、以下コピペ引用します。


鴎外の戦地からの妻宛(明治38年10月の)手紙に、「兵卒で兄弟の死んだもの丈が式場にならんだのがニ三百人もあつたのには実にぞつとした。その人は皆兄弟で出て一人になつて帰るのだ」というくだりがあります。

「戦死者のお祭」だそうですが、此の「ニ三百人」(の戦死者)のなかに、脚気患者は含まれていたのでしょうか。以下は素人判断ですが、「脚気患者も含まれていたのではないか」と(漠然と)私は思っているのです。

私の叔父が、海軍兵学校を出たはいいものの佐世保の海軍病院で「肺結核」で亡くなったのですが、たしか「戦病死」になっていて、(弔慰金といったものを貰った書類があって)(しかし国もちゃっかりしていて「国への献納金」といった名目で取り返して)其の領収書が(以前お話した祖父の満州での書簡綴りに)ありました。

とすれば、脚気での死亡も「戦病死」になる訳で、たしかに、兄弟が死んだのに其の席に招かれなかったら兄弟は不満に思ったことだと思います。つまり私は、此の「兄弟が戦死した者のお祭」の「ニ三百人」には、脚気死亡者も含まれていると思うのです。

そう考えて間違いないか、お伺いします。

つまり、鴎外の脚気に対する無策と其の結果起こった「脚気惨害」について、鴎外は(かなり重要な責任が自分にある筈なのに)、まったく「ひとごと」として見て「ぞつとして」いるのです。オイオイ冗談じゃないよ、あんたが殺したも同然ではないかと、鴎外には言いたいのです。嗚呼。

質問日時:2012/6/23 13:07:47


上記の質問に対して直ぐ回答がありましたので、興味のある方はリンク先に跳んで下さい 。ちょうど、(恐らく)『森銑三全集』だと思うのですが切抜きがあったので画像としてアップしておきます。森銑三は、「鴎外は、勿論山県公を識つてゐた。鴎外は公を重んじ、公の方も、鴎外の学殖に十分の敬意を払つてゐられたやうである。しかし井上(通泰)先生は、山県公と一座する時など、森はいひたいこともいはず控へてゐるのが、卑屈ともいひたいほどで、歯がゆかつた、といはれた」と云っています。こんな場面の(鴎外の情けない場面の)切抜きがいろいろある筈なのですが、いつものことでバラバラになっているので、以後、見付けたら(其の都度)アップすることにしましょう。それが、こういう「ブログ」のいいところだと(勝手に)思い込んでいるのです。


昨日の当欄で盧溝橋事件の河野又四郎大佐のことを、「田舎のしなびたお爺さん」と表現しましたが、やはり「しなびた」は言い過ぎで、単に「田舎のお爺さん」が適当でしょう。鴎外が、「官の場面」では厳しく序列を守ったようで(それは下位の者にとっては「序列を厳格に守らされた」ことで)そういう証言を読んだ記憶がありますが、それは逆にいえば、上位の者がいる場合にはペコペコすることで、今日の画像は其の一例です。


ところで、盧溝橋の河野大佐ですが、弾がドンパチするところで一緒に暮らした「全員」が、此の河野又四郎氏には、心からの尊敬を持っていたのです(数百人が一人残らず尊敬するというのはちょっと感動的ですよ。河野連隊長の「人間」にみんなが参っているのがよく分りました)。河野さんをみなが「連隊長」と云っていましたが、(序列の厳しい軍隊でもああいう人はいるのですね)どんな人からも尊敬されていて、「ああ日本陸軍にもこういう人がいたんだ」と、(ある意味で)ホットしたことがあります。みな、「死闘の場」に一緒にいたのです。対して鴎外は(妻宛の手紙・明治38年6月の書簡番号492で)、「自分で怪我をおしの時心配したとおいひだが戦争がはじまつてからこつちとらのゐる処に玉の来たのはたつた二度しきやない。それだからこなひだ群馬県の百姓の娘が慰問袋といふものをよこした時も玉の来ん処にゐてこんなものをもらつてはすまないと返事をしてやつた」と書いている通り、鴎外は、ドンパチの最前線でなく、ずっと後ろの方で(職務の「脚気」に注意することなく=今日のヤフー知恵袋に聞いたように「兄弟で出征した者で一方が死んだ兵士が二三百人」だというのに)(其の死者の中にはかなりの脚気死者がいただろうに)(脚気についての最高責任者の鴎外は)(「歳の差婚」の美人若妻に)デレデレとした書簡を送り続けたのです(※上記の「ニ三百人」も自分の責任に無自覚な証拠で、一把ひとからげに「ニ三百人」とはナンダと、文豪・鴎外に怒鳴りたい気持ちがします。ああそれから、書簡番号545に「しもじものものが」という言葉があって、冒頭に登場して貰った麻生ボンクラ坊ちゃんが、選挙で「しもじもの皆さん」=正確な語はご勘弁下さい、と挨拶したことを思い出しました)。トホホと嗚呼。也


平成24年6月23日20時50分



(「物外」ならぬ)方外忘機・

守方外こと

コードネーム021320123

(追うに意味ありtoアート引越センター)
又の名を(イギリス訛りで)today
アート糾弾ひつこしセンター」。



「追うに意味あり」アート引越センターへん=別題を 「狒狒爺爺 (ひひジジ) の 覆う非位の非々を追う日々 」に改題



「追うに意味あり」アート引越センターへん=別題を 「狒狒爺爺 (ひひジジ) の 覆う非位の非々を追う日々 」に改題