読むことも、書くことも好きだ。
しかし、自らの筆をとるたび、何度も何度も読み返し、時を経るごとに見直し、修正を繰り返す。
その営みの中で、説明が過多となり、言葉の意味が重なり、構成の統一が乱れることに気づく。
やがて、己の表現に終わりはないと悟り、
「文章とは、完成せぬものである」 という境地に至った。
けれど今、かつての自分の表現を、そのままに残したいと思えるようになった。
筆を加えたい衝動があれど、
その瞬間にしか生まれえぬ言葉、その時にしか響かぬ余韻がある。
それを消してしまうことは、書き手として最も愚かなことなのではないか、と。
知識を新たに取り入れるたび、慎重に言葉を選び、
届くはずの声が霞んでしまうこともある。
しかし、そもそも我が筆は、趣味の延長に過ぎない。
たまたま通りかかった者の心に一瞬でも残れば、それで十分。
どの花を見ても美しいと感じてもらえるだけで十分。
それ以上を求めるつもりはない。
頼みもしない言葉で正義を振りかざすことは控えてほしい。
己の価値観のみを正とし、花を愛でる余裕すらなく、他者の庭へ踏み込む者に、この場は相応しくない。
「君子之交淡如水、小人甘若醴」
私は、深く濁らぬ水を好む。
よく考えてみるがいい。この言葉を、宿題としよう。
意味を解さぬ者に、我が人生においても、我が読者としても、関わる必要はない。
心ある者ならば、然るべき距離を保ち、静かに読み、そして去ればよいのだから。


