Chihiro Sato-Schuh(チヒロ サトウ)
【自分を愛せなくなる理由】
ハイハート・チャクラを解放するのをやってみてから、これまでどれだけ自分を愛することが封じ込められていたのかが見えてきた。
封じ込められている状態があまりに長く続いていると、ほとんどの人はそれが当たり前の状態だと思って生きていくことになる。
そして、解放してみたときに初めて、もともとあったものが封じ込められていたことに気づくのだ。
自分を愛するとはつまり、
自分の感覚、自分の感情を
”信頼”することだ。
そういう感覚によって、私たちは自分を守ることができ、自分の健康、自分の自由を守って、この地上でするべきことをすることができる。
ところで多くの場合、私たちは自分の感情を抑え込んで生きることを強要されるのだ。
子供の頃から、泣いては叱られ、怒っては叱られてきた。
泣くのは悲しいことがあるからなので、それは悲しみを表現することによって癒す力を持っている。
しかし、私たちは子供の頃から、悲しみを感じることがいけないことであるかのように思い込まされている。
悲しみを感じ、それを表現するのは、人に迷惑をかけることであり、それは弱さや愚かさの徴だという風に言われてきた。
そして私たちは、悲しみを感じるたびごとに、自分は愚かな弱い人間、迷惑な人間だと思うようになり、悲しみを感じている人に対しても、楽しくしているべきだと言うようになってしまった。
怒りにしても悲しみにしても恐れにしても、こうした感情は、自分を守るために何かをするべきだということを示している。
恐怖を感じるのは、何かの危険が迫っているからだ。そういうときには、恐怖を感じるままに、逃げるなり隠れるなり戦うなりすることで、自分を守ることができる。
しかし私たちは、恐怖を感じるのは弱いことであり、恐怖は克服するべきものだと言われて育つのだ。
その結果、多くの人々は、恐れを感じるたびに、自分は弱い人間、ダメな人間だと思い込むことになる。
そして、自分を守る感性を失ってしまい、大丈夫だと言われたら、何でもするようになってしまう。
怒りを感じるのは、自分の自由を守る必要があるときだ。
しかし私たちは、怒るのは悪いことだと言われて育つ。
自由が侵されてもそれを受け入れて、侵した相手を許すべきだと思い込む。
そして、それができない自分は悪い人間だと思うのだ。
やってみればわかるけれど、こういう感情は、抑え込もうとしないで自然にそのままに感じて表現していたら、たいていの場合、数分もすれば収まって、バランスが取れた状態になる。
すると、感情に支配されることなく、変えるべき状況を変えることができるようになっている。
しかし、こういう感情を感じるのは悪いことだからと、感じまいとしていたら、延々と戦い続けることになる。自分で自分と戦って、力を使い尽くし、自分が悪い人間、ダメな人間だと思い続けることになる。
この頃は、こういう「ネガティブな感情」を持つと、ネガティブな現実を引き寄せるから、持つべきではないというようなことも、よく言われるようになった。
幸せな人間は、怒りや悲しみや恐れの感情を引きずってはいないから、それはもっともなことのように聞こえる。
それなのに、「ネガティブな感情」を持ってはいけないと説く人たちの多くは、誰かが怒りや恐怖の感情を表していると、その背景も考えないで、反射的にそういう感情を持ってはいけないと言ってくる。
そのように教えられているから、よかれと思って言うのだけれど、これは場合によっては非常に危険なことだということを知っておくべきだ。
怒りや恐怖の感情を表している人は、自分を守るために必死でやっていることもある。それは現実の危険であることもあり、あるいは過去のトラウマによる過剰反応であることもある。
もし現実の危険だったら、恐怖を抑えることで、本当に危険に出会ってしまうことになる。
心理的な過剰反応である場合もあるけれど、それをただ禁じるようなことをしたら、ますます自分を信じられなくなり、自分を罪深く思うことになり、精神的なバランスを崩してしまうことにもなりかねない。
どんな感情も、その人を
その場その場で守っていて、
表現しているのだ。
そのことに敬意を持てない社会に
私たちは長いこと生きてきて、
それが当たり前だと
思い込んでいるようなところがある。
自分の感情に敬意を払えなければ、人の感情にも敬意を払えない。
そうやって私たちは、自分を愛することもできず、人を大事にすることもできないような世界を作ってきたのだ。
ところでこの3年ほどで、人を意のままに操る心理テクニックを駆使した支配の手法が、長年研究され、使われてきたことが表に出てきた。
誰かを意のままに操れる状態にしようと思ったら、その人が自分を信じられなくなるようにする必要がある。
それで、その人のことは何でも否定して、その人が自分は罪深い、悪い人間だと思い込むようにしてしまうのだ。
そして、言うとおりにすれば、認めてもらえるというのを条件づける。
これは、MKウルトラとかの洗脳テクニックなのだけれど、多かれ少なかれ同じことを、私たちは家族や学校や職場で経験してきている。
それは、この社会が、気がつかないうちに、一体どれだけ支配されてきたのかということを示している。
自然な感情を感じさせないことにより、自分を愛せず、自分を守れない人間を作り出してきたのだ。
しかし私たちは、
自分の感情、自分の感性を、
本当に失ってしまったわけではない。
ただ、その感情を”再び信じること”を思い出せばいいだけなのだと思う。
ハイハートの封印を解いて解放してみたときに、そうしたことをヒリヒリするほどに感じた。
自分を愛するなどということは、よほど人間ができた人でなければできないかのように思えていたけれど、
実はそれは
生きる基本のようなものだったのだ。
そこのところを見事に封じ込められて、自分を愛すること、自分を大事にすることが、まるで自分勝手な悪いこと、
あるいは逆に、非常に難しい高度なことであるかのように思い込まされていた。
今、このハイハートが
解放されたということは、
きっと私たちが自分の感情、自分の感覚を取り戻し、
自分にも他人にも敬意を持てる世界に移行するという意味なのじゃないかと思っている。