『 旧相模川橋桁 』

中世の遺跡のことを、

うちは感じていた。


∞◇†火と日の融合、淡†◆∞ |KO KO RO
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。。。つづき




関東大震災1923年9月)と
1924年1月の2度の大地震の際に
小出川沿いの水田から7本の木柱が出現した。

その後の発掘により
地中になお3本あるのが発見された。



当時、沼田頼輔博士が『吾妻鏡』にもとづいて
鎌倉時代相模川橋脚と考証し、
中世橋梁遺構として高く評価されている。

沼田はこの橋を
「鎌倉時代1198年源頼朝の家来であった稲毛重成
亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために
相模川に架けた大橋である」
と鑑定した。



3回の内容確認調査によって、
新発見の橋杭1本を含め
ヒノキ製の橋杭が計10本確認された。

その配置は、
2メートル間隔の3本1列の橋脚が
10メートル間隔で4列に並んだものと推定される。



橋杭となった木柱は、年輪年代測定によれば
西暦1126-1260の一時点に伐採された
ヒノキ材と同定された。



また、橋杭の周辺には
地震による噴砂・噴礫の痕跡、
鎌倉・南北朝期の横板・角柱・礫等を用いた
土留のための遺構などが確認された。



この橋が確認されたことにより、
中世における相模川は
現在よりかなり東方を流れていて、
氾濫や地震による流路の変遷を経て現位置へ
移動したものと推定される。



震災で土地が隆起し、
北東(右上)から相模川へ流入する千の
河口を失って
大きな沼地(現在の浜見平団地の所)を作った。

柳島村は161反歩もの新たな耕作地を得、
幕末より続いた藤間温泉の湧泉量は激減した。

このように大地震が発生するたびに、
相模川はその流路を変えてきた。



古の守り本尊さま



以前導いてくださった、

攝津とある土地を想い出しながら



水の流れと、どこまでも



意識を寄り添わせていました。シャボン玉シャボン玉



水と自(月)を



融合してゆく。。。シャボン玉シャボン玉



にゃっ‼゚+。:.゚(*゚Д゚*)゚.:。+゚



にゃ~♪ヽ(´▽`)/🌻🎆🌀✨



みゃ~♪ヽ(*´∀`)ノ💞🐲✴



みゃ♪ほのぼの heat+kira*heat+kira*





「 トトロもね音譜

カタカタカタ音譜音譜音譜もいるよ~ (*'∀`*)v ラブラブラブラブ



「 木霊ですね音譜音譜 



母上がカタカタカタ音譜音譜音譜の名前



想い出させて、

くれましたにゃ。σ(*´∀`*)おんぷおんぷ



頼朝がこの橋の竣工式に出席した帰りに、
平家の亡霊に驚いた馬が暴れて川へ落ち、
そのときのケガが原因で死亡したという説がある。

この時、警護の武士10人が責任をとって自害し、
その墓が龍前院の境内の
10基の五輪塔であるとも言われている。

この事件によって相模川の下流部分を
馬入川(ばにゅうがわ)と称するようになった
という伝説がある。



次に呼ばれる地が、

変更されたことに気づいていました。ひらめき電球