カタカムナウタヒ5首・6首・7首の意味を知ろう!
カタカムナウタヒはただ音読するだけでも効果はありますが、意味を知っておくことでより有効に働いてくれるでしょう。
研究者によってさまざまな解釈がありますが、お師匠さんに教えていただいた「波動が上がる」「覚醒」をテーマにした解釈をお伝えします。
カタカムナウタヒ第5首の意味とは?
カタカムナウタヒ第5首の意味について解説します。
ヒフミヨイ
1・2・3・4・5の数字です。
ヒ(1)…魂の自分のこと。創造神の光の分光である神我・直靈(ナオヒ)・モナドのこと。大いなる存在の一部である自分のこと。
フ(2)…潜象界(非物質領域)と現象界(顕われている領域)の2つの世界にまたがる。
ミ(3)…魂(潜象界)・霊体(パイプ役)・肉体(現象界)の3重構造となる。
ヨ(4)…代(時間)と世(空間)・・・時空が生まれる。
イ(5)…いつ(トキの特定)。いづ(位置の特定)。時間と場所、座標軸を特定し存在する。
もともと創造神の分光だった神我(魂)が、潜象界・現象界にまたがり、地球という時空の世界を体験するために、肉体をもって降り立った。
ということで、ヒフミヨイは「ディセンション」を意味しています。
私たちはもともと神性なる存在で、本質である魂が地球を体験しにやってきたんだよ~、ということです。
マワリテメクル
マワリテメクルというのは「宇宙の周期がまわってきて、宇宙の覚醒エネルギーがめぐってきた」ことを意味しています。
どういうことなのか、具体的に解説します。
私たちの住んでいる地球やその他の惑星は、太陽の周りを公転しています。
学校の教科書を見ると太陽が静止しているように見えますが、実際には、太陽自身もトンデモない速さで動いています。
なんとそのスピードは時速70000km!
螺旋1周に26,000年
銀河を1周するのに2億2600万年
という途方もない時間がかかっています。
いかがでしょうか?
私たちが生きている100年くらいの時間は、宇宙の営みからすれば、ほんの一瞬の出来事なんです。
さて、螺旋1周に26,000年と説明しましたが、その半分である13,000年ごとに、宇宙の覚醒エネルギーのゲートが開いたり閉じたりするそうです。
13,000年前というとちょうどカタカムナの時代。
カタカムナの時代の人々は、覚醒しているのがスタンダードでしたが、その時代にゲートが閉じてしまいました。
そこから13,000年のときが経ち、宇宙の覚醒エネルギーのゲートが再び開いたために、今は誰でも覚醒しやすくなっているし、アセンションもしやすい時代になっているのです。
ここ数十年でスピリチュアル熱が一気に高まっているのは、こういった時代の背景もあるようです。
つまり、マワリテメクルというのは「宇宙の周期がまわってきて、宇宙の覚醒エネルギーがめぐってきた」ことを意味しています。
ムナヤコト
6・7・8・9・10の数字です。
ム(6)…ムスビのこと。
ナ(7)…地球。木・火・土・金・水・日・月の7つの元素霊とのムスビで地球が成る。
ヤ(8)…進展・発展・進化。やさかいやさか。
コ(9)…1ケタの最高位。究極。
ト(10)…神の数、遍在。
ヒフミヨイがディセンションだったのに対して、ムナヤコトはアセンションを意味します。
ヒフミヨイで天から地に降り立ち、まわりてめくり、ムナヤコトで地から天へ昇っていく。
この往復の行を完成させることで、本当の意味でヒト(靈止)になります。
人は靈止(ヒト)です。
創造神の靈が止まった存在が人だと説明されます。
ディセンションして「人」となり、アセンションして「靈止」となる。
いわゆる悟りの境地ともいえるでしょう。
しかし悟りはゴールではなくスタートです。
神性を自覚した靈止として、世のため人のために働いていく。
そんな意識が大切です。
このときには天命や使命も明らかになっているかもしれません。
アウノスヘシレ
「会うの術知れ」と言い換えることができます。
「神我(創造神)に会う方法を知りなさい」ということ。
神我は直靈(ナオヒ)・モナドともいわれます。
神道の考え方では、私たちの魂は創造神の分霊です。
「わたしも神様、あなたも神様、みんな神様」という世界観です。
自分自身の魂とリンキング(会うことが)できれば、イコール創造神を知ることになるのです。
※わたしたち一人ひとりはすでに(常に)自分の魂と繋がっていますが、魂意識を忘れた記憶喪失状態になっています。
カタチサキ
前述した「会うの術知れ」の方法の1つがカタチサキです。
形幸…天津金木(アマツカナギ)…神聖幾何学
型チ先…天津菅曽(アマツスガソ)…天との気線(アンタカラナ)構築
カタカムナ…言霊(ことだま)
三大皇学としての天津金木・天津菅曽・天津祝詞があり、これらの訓練・活用をすることで自分の神性(神我)に到達できる、という方法論を意味しています。