『不適切にもほどがある!』というドラマがこの先どこに行くのか、この先の展開を楽しみにしている | 好きなことだけで生きられる

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『不適切にもほどがある!』というドラマがこの先どこに行くのか、令和に小川は生きることができるのか。この先の展開をとても楽しみにしている。


こちらの記事からの抜粋です。 


『バービー』の場合は、女性だらけのバービーの世界から現実の世界に行くことで、現実の世界の女性をエンパワメントしようとする。が、その結果「自分はジェンダー的観点で時代遅れである」ことに気づき落ち込むバービーの姿が描かれる。

『不適切にもほどがある!』の場合は、(偶然だが)昭和の世界から令和の世界に行くことで、令和に生きる人々をエンパワメントする姿が第二話までで描かれた。だがおそらく、小川に待ち受けているのは、「自分は令和では時代遅れである」ことに落ち込む姿なのではないだろうか。

だがこうした類似点以上に興味深いのは、こうして『バービー』と『不適切にもほどがある!』と比較してみると、アメリカの映画が「男女」の分断を描いているのに対し日本のドラマは「世代差」の分断を描いている点である。

つまりアメリカでは「男女」こそが今最も深刻な分断のひとつだとされている一方、日本では――実は、「世代差」こそが分断の源泉なのではないか? ということが分かってくるのだ。

しかし、日本で『バービー』のような物語をつくろうとすると、むしろ男女よりも世代間の感覚の差異のほうが――深刻なのでは? という発想に、この作品の作り手が至ったこと自体、とても面白いなと私は思う。

つまりこのドラマは、「昭和世代」と「令和世代」の世代間対立を――ただ昭和を懐かしむだけではない形で――描いてくれるのではないか、と期待しているのだ。


『バービー』も、バービーとケンの対立をしっかりと描き、女性たちが活躍する世界と男女共存する世界のどちらかが良いという安易な判定に「至らなかった」点が傑作だった。だとすれば『不適切にもほどがある!』もまた、昭和世代と令和世代の世代間対立をしっかり描いてほしいと感じている。

「話し合いましょう」と第一話ラストのミュージカルシーンは歌う。しかし「話し合い」は、異なる世代の間には、しばしば難しい。そもそも権力勾配がある以上、「話し合い」はフラットにおこなわれない。しかしだからこそ、私たちは「話し合いましょう」とともに歌うことが重要なのかもしれない。

『不適切にもほどがある!』というドラマがこの先どこに行くのか、令和に小川は生きることができるのか。

三宅 香帆