いつも通りに会社で仕事をしていて、そしたらカタカタと小さく揺れてそれが段々大きくなり
私の他の女性事務員は外に出ていった。

私は直ぐに収まるだろうと、机に座っていたのだけど
揺れが尋常じゃなくなり、これはヤバイって思い外に出ようとしてもうまく歩けなくて荷捌き所にうずくまった。
大きな重量計が目の前でガタンって落ちて

ひたすら怖かった。

大きな揺れが収まったら急いで外に出てSさん達の元へ。
郡山に帰ろうとしていたK課長も高速が止まったと戻ってきた。

消防車やパトカーのサイレンが鳴り響いていて
信号も止まり道路が混乱していた。
のちに警察官が到着して手信号で整備をしてた。


余震も続いていて、そんな中A所長が皆の安否を確認


ラジオをつけたら元総理の管さんが何かを叫んでいた声が聞こえてきた。


A所長が仙台の人とやっと連絡が取れて、話しを聞いたら仙台の事務所の2階まで津波が来たと…。。


それを聞いても想像も出来なくて頭の中に飲み込めなかったな…


雪が沢山降り始め
本当に不気味だった。


大きめな余震の度に外に逃げながら暫く事務所に居て少し片付けたりしてて、K課長が女性達を早く返すと支店長へ連絡をしくれ帰宅。


携帯も繋がらないし、家族が心配で心配で早く家に辿り着きたい気持ちで家に向かってた。


母の姿を見て少しホッとし、家に帰ってからは何があってもいいように避難する準備をして、いつでも外に出られる様にしていた。



父も家に帰ってきて、妹も旦那さんが単身赴任をしていて一人だったので家に帰ってきた。


家のラジオは壊れていたから情報も分からないし
友人達の安否も分からないし余震もずっと続いて怖くて眠れない一夜を過ごした。

3日後に電気が復旧して

ネットも繋がる様になって、mixiにログインして皆の安否を知り安心して
自分も無事だと呟きに書き込みをした。

テレビを付けて見たら光景は地獄の様で…言葉を失った
こんな大変な事になっていたなんて


そして原発事故…



自宅待機期間は食料調達やら片付けしつつテレビにかじりついてたよ。。
少しの情報も漏らしたくないと思ってた。

毎日毎日犠牲者の数や行方不明者の数が増えていってるし
原発は悪化を辿ってるし気が滅入った



あれから1年経ったけど、まだまだ傷跡は残っていて
行方不明者もまだ居る。。


復興はまだまだこれから。


海外から、日本全国から沢山支援してくれている人達も居る。心を寄せてくれる人達も

それを胸に抱き感謝をしながら
犠牲になった人達の冥福を祈り
生きている私達はこれからを進んでいかないと。


日本は地震大国故に何処かでまた大地震が来るかもしれない…

だけどやっぱり
もうこんな事は起きてほしくない
明るい未来に向かって歩いていきたいよ。