「誤解された歎異抄」梅原猛 光文社を読む
P18 大納言阿闍梨弘雅:すなわち唯善は、鎌倉時代後期の浄土真宗の僧。父は小野宮禅念。母は親鸞の娘覚信尼。幼名一名丸、字大納言弘雅阿闍梨。下総国関宿西光院(現在の常敬寺)の開山。
P22 禅念の「真弟」が唯円なのである。「真弟」というのは僧は戸籍上、子供を持ってはいけないので、戸籍上は弟子となっているが、本当は、息子である人間を指すのである。
P28 『 慕帰絵 ぼきえ 』、『 最須敬重絵詞 さいしゅきょうじゅうえことば 』:慕帰絵詞 (ぼきえことば) 親鸞の後継者で本願寺発展の基礎を開いた第3世覚如(1270-1351)の伝記を描いた絵巻。『最須敬重絵詞』は、本願寺第3代宗主 覚如 かくにょ の門弟である乗専が文和元年(1352)に著した覚如の伝記である。
P31 定善・散善(じょうぜん・さんぜん):心を一つの対象に定めて妄念をおさえ実践する善(定善)と、心が外界の事象にとらわれて散乱しながらも悪をおさえ実践する善(散善)。
P44-50第二条 「念仏して浄土に生まれるか、地獄へ落ちるか、そういう事はまったく知らない。念仏して地獄へ落ちても、ちっとも後悔しない」と親鸞は言う。
P55 第六条 親鸞は弟子を一人ももたずにそうろう。
P74 法然の「七箇条起請文」(七箇条制誡ともいう)および「選択本願念仏集」
P74 「選択本願念仏集」の内題の字に、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の字と「釈綽空〈しゃくのしゃっくう〉 」という当時の親鸞の署名がある。
P79 「歎異抄」と「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」の共通点
P82 「歎異抄」は18条から成るが、11条以下は異端の思想の批判である。・・・・・それは自力を他力念仏の教えのなかに入れようとする傾向である。
P84 第一条 摂取不捨
P88 第三条 「悪人正機説」は親鸞の思想の中心ではない
P92 親鸞の立場は、法然の“念仏の教えは末代の知恵もなき善もなき凡夫の布教である”という思想を、身を持って実践することにあった。
P107 本願ぼこり
P113 悪人正機説を中心に、親鸞の思想を解釈することはまちがいである。
P115 それを知るには、親鸞の主著「教行信証」を読まねばならない。
P120 「二種廻向」こそ、親鸞独自の思想である。
P122 浄土三部経:浄土教の根本聖典で,《大無量寿経・大経》、《観無量寿経》と《阿弥陀経》の三経典をあわせた総称である。
P124 《観無量寿経》では、定善・散善の二重の善が語られている。
P124 無碍光如来(むげこうにょらい)とは、阿弥陀如来の別称であり、その光が一切の障害なく十方(あらゆる方向)を照らすことを讃える言葉。
P125 極楽浄土には真仏土と化身度の二種類がある。
P128 大乗仏教は、それまでの仏教、小乗仏教が、声聞縁覚*の仏教であったのに対し、菩薩の仏教であるといわれる。
*声聞とは、教えを聴聞する者という意味で、声聞界は仏の教え聞いて、おもに四諦(したい)を修習し、自分自身の悟りを目指す人の世界です。 縁覚界は、おもに十二因縁(じゅうにいんねん)を観じる行(ぎょう)などによって、師を持たずに悟りを得ようとする人の世界です。
声聞乗と縁覚乗と菩薩乗の違いは何か
悟りに至るには,人の資質などに応じて3種の方法がある。 教えを聞いて初めて悟る声聞(しょうもん)(小乗),自ら悟るが人に教えない縁覚(えんがく)(中乗),一切衆生のために仏道を実践する菩薩(ぼさつ)(大乗)の三つをいう。
四諦は、以下の4つの真理から成り立っています。
- 苦諦(くたい): 人生は苦しみであるという真理です。生老病死など、思い通りにならない苦しみを指します。
- 集諦(じったい): 苦しみには原因があるという真理です。苦しみの原因は煩悩や執着にあるとされます。
- 滅諦(めったい): 苦しみの原因を取り除けば、苦しみが滅するという真理です。苦しみが滅した境地を涅槃と呼びます。
- 道諦(どうたい): 苦しみを滅し、涅槃に至るための具体的な道筋を示す真理です。八正道がその具体的な実践方法として説かれます。
道諦で示される具体的な道筋が「八正道」です。八正道は、正しい見解、正しい思考、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい気づき、正しい集中という8つの実践項目から成り立っています。
P129
菩薩の仏教:利他の精神のゆえに、極楽浄土にいつまでも留まるというわけにはいかないのである。極楽浄土に行ったらば、しばらくそこに泊まって、やがてこの世に帰り、この世で苦しんでいる人たちを救済しなくてはならないのである(還相廻向)。
一生補處(いっ しょうふしょ):①生死の世界につながれるのはこの一生だけで、次の世には仏として生まれることができる地位。菩薩としての最高位の等覚(とうがく)をいう。② 特に、今は兜率天(とそつてん)にあり、次の生にこの世に出現する弥勒(みろく)菩薩のこと。
兜率天:釈迦が亡くなってから56億7千万年ののち、この世に現れて仏となり、人びとを苦しみから救うと言われている弥勒菩薩(みろくぼさつ)です。
正定衆しょうじょうじゅ:浄土(真実報土)往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏に成ることが決定している人をいう。第十八願の信心の行者のこと。
P134 なぜ極楽を二種類に分けたのか
真仏土:報土とも言い、あわせて真仏土報土(浄土)とも言う。それは正真正銘の真実の極楽である。そして、信心篤い念仏の行者が報酬として間違いなく往生できる極楽である。
無礙光如来(むげこうにょらい):阿弥陀如来は「無碍光如来」とも称され、その光は障害物に遮られることなく、すべての方向に無限に広がっています。 この光は、阿弥陀如来の智慧と慈悲を象徴しています。
化身土: 阿弥陀如来が仮に方便として現れた極楽。懈慢界けまんかい怠け者の行くところであって、疑城胎宮ぎじょうたいぐ、つまり阿弥陀の救済を疑う人間の行くところであり、胎宮のような暗い極楽である。(親鸞聖人は、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)と『経典』にも基づいて、教えられました。)
仏教的には「人を真の教えに導くための仮の手段」とされています。ですからこの第6巻は「人を真の教え(真実浄土)に導くための方便としての仮の浄土(化身土)がなぜ必要なのかを様々な経典・論書・釈書から説明していく章」ということになるでしょうか。
P139 三福・九品(さんぷく‐くぼん・くほん):人を宗教的資質の面から九種に分け、また人が行なうべき、福徳をもたらす基本的な善行を三種に分けて、両者を一対として極楽往生の道を説いたもの。 「観経」の教説に基づく。
「観無量寿経」は大変芸術的な経典である。親に恨みを抱いている阿闍世王が、父のマガダ王ビンビサーラ(頻婆娑羅)を殺害し、母の韋提希(いだいけ) 夫人を幽閉するという悲劇を背景にして語られる。
P141 「阿弥陀経」はすぐれて美的な経典である。
P144 他力の思想を守るため信者を「差別」した
他力を信じ念仏に励む人と自力の人、あるいは他力の中に自力を交える人とは多少の差別がなければならないと親鸞はかんがえたのであるう。
信仰のいい加減な怠け者や、疑い深い人が同じ極楽浄土へ行けるのか、そこに親鸞は差別がなければならないと考えたのである。源信の「往生要集」は、地獄と極楽を説く。法然は念仏さえ唱えれば極楽往生する考えた。
150
本当の極楽は光の世界である
151 九品往生:九品(くほん)とは、物質や人の性質を3×3で分類したもの。三三品(さんさんぼん)。 現在俗にいわれる上品・下品(じょうひん・げひん)の語源とされる。
またしばしば、九品浄土(9の等級に分けられた浄土)や九品蓮台(同様の蓮台)を単に九品と呼ぶ。浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品があり、さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、合計9ランクの往生があるという考え方。九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のこと。
156 親鸞の「和讃」に二種廻向をみる
和讃(わさん):仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌。
真仏土往生と化身土往生:真実の信仰の行と信とが定まっている人は、いつも阿弥陀仏のことを考えて、阿弥陀仏の恩に感謝している。そして必ず、真実浄土に往生することができる。しかし、この阿弥陀仏の誓願の不思議を疑いながら念仏をする人は、美しい宮殿のある極楽浄土すなわち化身浄土に往生するが、そこで五百年虚しく時を過ごしてしまう。
P162 高僧和讃・・・・・インドでは竜樹と天親(世親)、中国では曇鸞、道綽、善導、日本では恵心僧都(源信)と源空すなわち法然上人。
竜樹は難行道と易行道とを分け、極楽浄土への道は、易行道であり、誰にでも行うことができる道であると説く。
天親は、無礙光如来(むげこうにょらい)に帰依して、真仏土浄土に往生する。つまり、一心に阿弥陀仏を念ずれば必ず神仏浄土に往生すると述べた。ところが、この真仏土浄土に往生にすれば、必ず願作仏心(がんさくぶっしん)を起こす。それは、仏になりたいという心であり、仏になりたいという心は衆生を救いたいという心であり、衆生を救いたいとという心は、他人に利益を与えたいという心である。
参考:
真仏土往生:つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。
化身土巻の位置:まず『教行信証』における位置です。順番からいきますと、「教巻」から始まって「行巻」、「信巻」、「証巻」、「真仏土巻」、「化身土巻」ですから、六番目ということになりますけれども、『教行信証』の内容ということから考えますと、「化身土巻」と共通したものをもっているのが「信巻」です。
以下は単なる伝説にすぎないであろう。
「皇太子聖徳奉讃」:親鸞聖人が聖徳太子を讃えるために作られた和讃(わさん)。
P195 「あの世」を信じない近代人が、親鸞の思想を誤解した
以上、私は二種廻向(往相回向と還相回向)と真仏土・化身土往生の二つの思想が、親鸞の思想の中心
P201 人間は永劫の流転を続ける
P204 仏教で説く浄土は六道輪廻の根を断ったところにあるというふうに考えられる。浄土はまさに、六道輪廻の根を断った人の行くべきところで、そこは永遠の涅槃の国と考えられるのである。
P207 土着宗教が日本独自の再生の仏教思想を生んだ
P209 「日本人の「あの世」観」→縄文時代以来の世界観
P210 人間が死ぬと、魂は人間を離れてあの世へ行く。屍は魂の抜け殻にすぎないので、山に捨てた。古代の日本人は、葬式のことを「はふる」という。「はふる」というのは、捨てるということである。
死者を葬る所を墓というが、墓は「はかす」から出たものであるうが、「はかす」というのは、沖縄では死体の水分をなくすということである。
P212 通夜はほとんど葬式の前の晩である・・・・・それはお通夜が、昔は葬式だったからであろう。
P213 夕方の初めに人間の霊をあの世に送れば、あの世は朝の初めであり、死者はその日のうちに先祖の待っている所へ辿り着けるという理由による。
P214 日本では、“人間は死ねばみな神になる”と考えた土着の宗教の考えが、仏教に入ったのに違いない。
P219 現代の日本は主に往相のほうは仏教に、還相の方は神道に任せている。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也(月日は永遠の旅人であり、やってきては過ぎていく年も旅人である)。
P229 この、あの世についての壮大な思弁体型に、私(注:梅原)は、人類の文明の歴史そのものがあると思う。イワン・カラマーゾフは、「神があるかないか、不死があるかないか、イワン答えよ」という父・ヒヨードルの問いに、「神も不死もありません」と答える。しかし、「ないとしたら、どうしてそのような虚偽が存在するのか」という父の問いに、「神と不死がなかったら、文明もありません」とイワンは答える。
P233 真仏土浄土に往生した人は、あの世に行って仏になり、菩薩としてこの世に帰ってくるのである。
P238、241 第四条 聖道門の慈悲を捨てて、浄土門の慈悲につけというのである。この浄土門の慈悲というのが、還相廻向ということを考えないと理解できないことである。
P242-245 第五条 親鸞はなくなった父母の追善供養のためだといって念仏をしたことは一度もございません。
これまた還相廻向の思想を理解してないとわからない文章である。・・・・・中略・・・・・一切生きとし生けるものは、世々生々(せぜしょうじょう:生れかわり、死にかわりして、幾千万世を経ること)の父母兄弟である。そして念仏の行者は、念仏をして、あの世に行って仏になり、そしてまた、この世に帰る。この世とあの世の無限の往還をするが、そのような順次の人生においては、一切生きとし生けるものを救うことができるというのである。
P244 「天台本覚論」:衆生に本来そなわっている清浄な心のこと。
六道四生:果てしのない生死の苦海。 卵生(らんしょう)、胎生(たいしょう)、湿生(しっしょう)、化生(けしょう)の4種をいう。 卵生とは鳥類のように卵から生まれるもの、胎生とは獣類のように胎内から生まれるもの、湿生とは虫類のように湿った場所から生まれるもの、化生とは天人や地獄の生き物のようによりどころをもたずに忽然(こつぜん)と生まれるものをさす。
P245 神通方便:自由自在に助けることができる。
P247 第八条 念仏は、これを唱える行者のためには、善でもなく行でもないのであります。行というのは、自分の力ですることですが、念仏は自分のはからいではなく、阿弥陀さまのお召しによってさせられるのですから、行ではないというのです。また、善というのは、自分の力ですることに関していうのですが、念仏は自分のはからいではなく、阿弥陀さまからさせられるのでありますから、善ではないというわけです。すべてが阿弥陀さまのほうからの働きかけでされることであります。自力を離れていますので、念仏は行者にとっても全く行でもなく善でもない、非行・非善であります。
P248 等正覚:等覚(とうがく)とは、等正覚(とうしょうがく)という言葉の略です。 そして正覚とは、「安らかな仏のさとり」のことです。 等覚、等正覚とは、その正覚に等しいということで、「安らかな仏のさとりに等しい位」という意味。
P249 「自然法爾」(じねんほうに)
P251 真実報土の浄土:親鸞聖人は浄土のことを真実報土(しんじつほうど)とおっしゃっています。 私たちの人生は、苦悩を縁として、浄土往生の道程として位置づけられている。阿弥陀仏の浄土は「真実報土」といわれます。 他方、阿弥陀仏が、自力に 執 とら われている 行者 ぎょうじゃ に思い描かせておられる浄土を「方便化土」というのです。
P252 十一条 名号不思議と再願不思議:誓願と名号とは別のものではないということです。迷い苦しむものを見て、救おうと誓う阿弥陀仏の誓願と、救うためにはたらきかけている名号とは、別のものではないということです。本来は別のものではない誓願と名号とを、区別して解釈する「誓名別信」の異義と、そうした異義を人に伝え、言い惑わす人がいたことが、「第十一条」に記されています。
P258 第十七条 化身土往生について:浄土の片隅のような化土に往生した者は、やがて地獄におちると説く人々がありますが、それは何の証拠によってそう主張するのであろうか。学問のない人ならばともかく、学問をした人々の口からこんなことが言い出されるのは誠に浅ましく情けないことであります。お釈迦さまの説かれたお経や七高僧のお書きになったお聖教をどのように見られたのでしょうか。
P268 我々は、近代主義的な親鸞の誤解から親鸞を救い出さねばならない。
完