執事の田中良和さんが経緯を語る。「五右衛門さんは、六条から八条辺りの牢屋から寺島通りを北に上がって引き回しにされ、三条河原で釜ゆでにされました。五右衛門さんが(当時、寺島四条にあった)大雲院の前を通った時、貞安ていあん上人が論したら感涙して『死んだらこのお寺に葬ってほしい』と願い出しました。遺体は引き取って大雲院に埋めましたが、秀吉の手前、墓石はしばらく造りませんでした」
話は冒頭に戻る。三門は1295年(永仁3年)に建立されたが、1447年(文安4年)に焼失。1628年(寛永5年)、藤堂高虎が大阪の陣に倒れた将士の菩提ぼたいを弔うために再建した。
つまり五右衛門が生きた時代に三門はなく、絶景は見れなかったのだ。





尾張・徳川美術館展素晴らしいですね!
ブログ更新していない日でも 50人以上の訪問がありました。
ありがとうございましたm(__)m
五右衛門捕縛にまつわる伝説も残る。五右衛門が京都・伏見城の秀吉の寝室に忍び込んだ時、香炉の千鳥が鳴いたため、捕まったと言う宝物だ。この香炉、残念ながら今夏の徳川美術館展には、来ないが、至宝の一つとして保管されている。
京都・円山公園の大雲院には五右衛門の墓がある。戒名は「融仙院良岳寿感弾定門」。墓には「寛永9年」(1632年)と刻まれており、釜ゆでされた年とは38年開きがある。






徳川美術館展ー尾張徳川家の至宝
7月5日~8月24日札幌・道立近代美術館で開催中。

艶が~るのイベの七夕は今回無料じゃないのね~Www(泣)。
五右衛門は秀吉時代の1594年(文禄3年)、本当に釜ゆでにされていた。スペインの貿易商・アビラ・ヒロン「日本王国記」を要約するとこうだ。
「都に一団の盗賊が集まり、目にあまる害を与えた。誰かの財布を切るために人々を殺害したからである。都、伏見、大阪、それに堺の街路には、毎日夜が明けると死体がごろごろしている有様であった。
日中は真面目な商人の服装で歩き廻り、夜になると、昼間偵察しておいたところを襲う。
幾人かは捕らえられ、拷問にかけられて、これらが十五人の頭目だということを白状した。十五人の頭目は生きたまま油で煮られ、彼らの妻子、父母、兄弟、身内は五親等まで磔はりつけに処せられ、盗賊らにも、子供も大人も一族全部もろとも同じ刑に処せられた。
京都で修道委員長を務めた宣教師ペドロ・モレホンが「油で煮られたのは、Ixicavagoyemon(石川五右衛門)とその家族」と注釈を入れ、これを裏付ける。







今日は大事な用事で苫小牧市に行きます!m(__)m
釜ゆでの刑に処せられた天下の大盗賊・石川五右衛門。京都・南禅寺の三門から「絶景かな」と見得を切る歌舞伎の名ぜりふはあまりにも有名だ。そんな五右衛門、伝説上の人物かと思いきや実在していた。お縄になるきっかけになったと伝わる宝物も徳川美術館(名古屋市)に残っていた。
湯豆腐で有名な南禅寺の三門。拝観料を払って階段を見上げると、とても高くて急で高所恐怖症なら足がすくむほど。たづなを手に上がり詰めると、古都の町並みはもちろん、落語で知られる愛宕山あたごまで、まさに絶景が広がっていた。
並木五瓶作の歌舞伎「三門五三桐さんもんごさんのきり」は1778年(安永7年)が初演。「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは小さなたとえ、この五右衛門が目から万両…」。三門の上で名ぜりふを吐く五右衛門の前に手紙をくわえた鷹たかが飛んでくる。自分が明国・そう蘇卿そけいの遺児で、以前から養父・武智光秀の敵として狙っていた豊臣秀吉ならぬ真紫久吉が実父の敵であることを知る。怒りに震える五右衛門の前に久吉が現れ、有名な「石川や浜の真砂まさごは尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」を詠み上げる。権利者と反権利者の関係となって、五右衛門はやがて義賊に祭り上げられていく。


石川五右衛門 絶景、実は見ておらず。


長文になるので、続きますm(__)m
尾張徳川家の旧藩士らが開拓した町、渡島管内八雲町に胸像が立っている。。台像にはたった4文字「徳川さん」。尾張徳川家19代主・徳川義親よしちか(1886~1976の像で、本人たっての希望で「偉そうな名前じゃなく『徳川さん』に」となったそうだ。
この徳川さん、何ともユニークな人物なのだ。
北海道土産の定番・木彫り熊の生みの親であり、八雲町に通って熊狩りをしたり、千島でアザラシ狩りをしたり。マレー半島で虎狩りまでやってのけ、付いたあだ名は加藤清正ばりに“虎狩りの殿様”。「虎狩り」にひっかけて理髪業組合の名誉職まで引き受けたという、うそのような逸話も残っている。
政治的にも国民の幸福のなめならばと、右翼、左翼の両勢力とも色眼鏡なく付き合い貴族院議員として治安維持法に反対。戦後は日本社会党結成を支援し獲憲論を唱える…。
さらに「尾張名古屋は城でもつ」とうたわれた江戸時代の大大名・尾張徳川家の絢爛けんらん豪華な宝物を保存するため、徳川美術館(名古屋)を開設する。
徳川の「お宝」にも劣らず興味深い「徳川さん」の物語を振り返ってみた。

徳川さんは 北海道のアイヌ民族の父・バチェラー博士を公私にわたって援助し、「アイヌ英和辞典」の序文を書いている。
そして、木彫り熊のモデルは、スイスの民芸品がモデル。八雲は木彫り熊発症の地。徳川さんが1912年(大正10年)、スイス・ベルリンを旅した際、木彫り熊などを発見。屋根も壁もわらの粗末な家に住んでいた八雲の農民たちの副収入になるようにと、持ち帰って木彫りを推奨した。当時八雲はバレイショが暴落し、1年で2千人もが離農する大変な逆境にあった。******** 89歳で亡くなった徳川さん。ひ孫にあたる徳川美術館長の徳川義崇よしたかさん(52)は言う。「亡くなる前日、地元・目白(東京)の町内会のお祭りに差し入れを持っていき、上機嫌で帰ってきて翌朝大往生をしました。義理人情に厚く、人を大事にした義親らしい最期だったと思います」


今年の夏は冷夏と発表されましたがぁ、まさかの撤回の平年並みに…。
今日7月1日から北海道は節電対策をします。我が家はどうしても西日がぁ入りかなり暑いです!汗
東京・千葉の節電対策はかなり酷かったですね(°□°;)
札幌市はまだ恵まれていますから良しと考え、早寝早起きを心がけます。
皆さんも 節電対策よろしくお願いします m(__)m

「鵺ぬえ」をご存じか。頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎の怪物で、鳴き声はトラツグミに似てちょっと不気味。そんな鵺退治にまつわる伝説が京都に残っている。「平家物語」などをひもとくと、平家時代未期・仁平(1151年~53年)のこと。近衛天皇は、丑の刻(午後2時前後)になると御殿を覆う黒雲に夜な夜な恐怖しおびえていた。
さて化け物のしわざかと、警護の命が下がったのが源頼政(1104年~80年)だ。頼政は、大江山の鬼・酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治した源頼光の子孫で、まさに適役。
頼政は山鳥の尾で作った鋭い矢2本と、弓を持って御殿へ。丑の刻になって黒雲が御殿へ。丑の刻になって黒雲が御殿を覆うと「雲の中に怪しき物の姿あり」。
頼政は「南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ」と祈念し矢を放つと手応えが!
「得たりやおう」と矢叫びをあげた。家臣の猪早太が怪物を取り押さえて、9回刀を刺して息の根を止め、死骸を舟に入れて流した…。
作り話かとおぼしき鵺退治の物語。だがなんと頼政が放った矢の鏃や、鵺の墓が現在しているというのだ。
この夏、札幌で開かれる「徳川美術館展-尾張徳川家の至宝」には、頼政が使用した天下の名香「蘭奢侍らいじゃたい」(部分)がやって来る。鵺退治のご褒美にもらったとの説もあるが、その真相はいかに。



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「徳川美術館展-尾張徳川家の至宝」は、7月5日(土)~8月24日(日)まで札幌・道立近代美術館で 展示される。

天には星が

なければならない

大地には花が

なければならない

そして、

人間には

愛がなければならない


ヨハン・ゲーテ





俊太郎さまは いつも優しく「かいらしい 」「かいらしい わての子猫」「あんさんは 天女や」と耳元で囁いてくれる。

私は俊太郎さまに言いたいことはいっぱいあるのに…。

「俊太郎さま」

「へえ…」

「大好きです」


俊太郎さまは私を抱き寄せて

甘いキスをした。




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札幌市花フェスタ 2014は 6月21日(土)~29日(日)会場は大通公園(西4~7丁目)開催!
昨日は 初歩的なミスをしてしまいましたがぁ
昨日のアクセスにびっくり(°□°;)

有名な詩の下に駄作ですがぁ、読んでくてたら、幸いです。。m(__)m
かえでさん 連絡下さい(>_<)メッセージ送っても 連絡なし…(泣)携帯&スマホ見ていないのかなぁ?誰か知っている方いないですかぁね~?かえでさん 連絡待っていますm(__)m