宿る (6) | しーのの「立ち位置あってますか?」

しーのの「立ち位置あってますか?」

 生きていればいろいろあるよね。いや、ありすぎかも…。ひょんなことから自分の立ち位置揺らいでしまいました。さぁどうしよ。


私は『書』のド素人だが 仕事上 作図で線を書くことから

線に勢いや 張りを見る癖がある。








           今度は その私なりの視点で 良寛の『字』のつくりを 見てみた。








 

誰にでもわかりやすいように 変に気取ることなく・・・というか

むしろ素人のような文字だ。


                               『良寛の書』NHK出版より

軽く 柔らかく

その文字には 偉人達が残した書状などにみられる迫力もなければ

威圧感もない。

むしろ 抜けるものを すべてはぎ取った 究極のシンプルな線だ。





骨格のみ・・・というのだろうか。






線の太さやハリ・トメ・ハライを大袈裟に飾り立てることなく

その骨のみで 完璧なカタチを勝負している。

当然だ。

修行で 名だたるる書の神髄を 我が身に取り込んでいる。

それらを自分の中で消化させて 余分なものをはぎ取った良寛の線は

迷うことなく けれど線と線の空間の絶妙なバランスを保ち

字が完成される予感をはらんだまま・・・ それを










                 良寛は あえて崩し曲げた・・・。











じっくりと見ていると その作業は  

こちら・・・見る側の緊張感を解き 

その『書』に付け入らせる隙をつくっているようにみえるし

意図的に崩すことで できた余白の部分に

こちら側の思考のスペースを 作っているような気もする。



見る人すべてを受け入れるやわらかな温かさ

 線の細さ・・・からか 

『無』のなかでひとり模索する寂しさを含んで・・・。










不思議なんだけど
ほんとうにね。
すぅ~っと浸み込んできた。
この文字たちが わたしのなかに。


身体の奥から 
     震えたんだな・・・。

















良寛は

『無』という世界に我が身を置き

あえて形式美に囚われず 究極のシンプルな線に

自分の『有』を 見出していた。

そしてその線の 一本一本は 

彼の生きザマを 滲みだして こちら側に語りかけてくる・・・。








ん!(  ゚   ゚ ;)








                 彼の生きザマを 滲みだして・・・?









アレ! ・・・・もしかして  ( ̄□ ̄;)











文字を書く本人は 

その文字に 心を乗せることを いちいち意識していたわけではないだろう・・・。









私が学生時代 友人たちの字を見て 神経質そうだとか 気が小さそうと感じたのは

本人が そのような思いを込めて書いていたわけではない。

宮沢賢治が病の苦しさを伝えたいがため 文字をゆがめたわけでも なかったハズだ。




     線は

        本人の意思とは関係なく 

              書き手の個が滲み出てしまうものなのだ・・・。









                        こころは線に宿る。 


                                 勝手に 宿ってしまう・・・のか。










 
つまり・・・。

ただキレイとか 上手くデキているということは 

感心はするけど

感動はしない。







画でも 書でも 工芸品でも

その技巧を真似て アタマで意識してそれを創りだそうとするうちは 本物ではないんだ。






本物とは・・・

創作者が 日常生活の中で積み上げてきた『自己の確立』・・・つまり

生きていくうえで必要な寝食などの生理的なものから 

政治・宗教・哲学や精神論など その人を成すすべてが 

作品作りの過程の中で 本人の無意識のうちに精製され

作品に宿って モノに命が吹きこまれる。

つまり作品はその人自身となり

多くの人は そこに心揺さぶられ 感動させられるのだろう。  









               作品で大切なのは 技巧ではなく 宿らせる大元の個の充実・・・。









                          それを 良寛の書は教えてくれる。










良寛の場合・・・。




           生まれることのの意味

                 生きることの意味

                 死にゆくことの意味    



                それらを学ぶのに 寺はいらなかった。






      

                      己の書を書くために 


                上質の紙もいらなければ 筆も選ばなかった。








                   必要なのは 最低限の目の前にあるもので 

                             重要だったのは 自身の中のを極めること。
















                                  ( ̄  ̄)


                          私は今 どんな 字を書くのだろう・・・。
                            




























「しーのさん・・・
ガラクタを お探しなさい。








                           (6/5ブログ 『我楽多(5)』より)  






心の奥の方から声がした。

あの日からずっと 私の心に鎮座している言葉だ・・・。

                      






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