AとZのあいだ

 

    

"I am the A and Z,

the beginning and the ending 

of all things,"

says God, who is the Lord,

the all powerful one who is,

and was,

and is coming again!

 

The Revelation 1-8
(The Living Bible)

 

 

 1年ほど前から、聖書を読むLineのグループに参加して、毎日送られてくるメッセージに記載された部分を読み、祈る、という15分ほどの日課が続いている。私は3冊の聖書を持っている。若いときに洗礼を受けて、その教会でもらった日本聖書刊行会の「新改訳」と、イギリスで刊行された「The Living Bible」。それと、アメリカで刊行された「Good News Bible」、これは当時の英語の先生が勧めてくれたものだったと記憶している。この3冊を順ぐりにしている。英語より日本語で読んだほうがわかりやすいのではないか、と思われるかもしれないが、意外と英語のほうが理解しやすいこともある。それは、日本には唯一神の概念がもともとなかったので、翻訳が難しいということもあるかもしれない。本来なら旧約はヘブライ語で、新約はギリシャ語で読むのがいちばん理解できるのだろう。いま一般的に読まれている和訳は新共同訳で、それは新改訳よりも読みやすいようだ。ネットでは新共同訳を読むことができる。

 旧約と新約をそれぞれ少しずつ読むのだが、だいたい新約は書かれている順番通りに、「第一ヨハネの手紙」、「第二ヨハネの手紙」、「第三ヨハネの手紙」、「ユダの手紙」ときて、今日は「ヨハネの黙示録」に入った。黙示録が書かれたとき、キリスト教徒はひどい迫害を受けていた。黙示録に書かれた世界の終わりは、殉教者にとって苦難の終わりを意味していた。

 それから約2000年がたち、おりしも、聖書の重要な舞台であるパレスチナではイスラエルとガザ地区での激しい武力衝突が起こり、17日夜ガザの病院が爆破されてそこにいた数百人が死亡したが、イスラエル政府は自分たちはやっていないと主張している。いまも空爆は続き、ガザ地区の死者は4千人近くになっている。欧米諸国はイスラエルを訪問して支持と援助を約束し、武器や戦車をイスラエル側に続々と送りこんでいる。一方イスラム圏の国々はイスラエルの嘘と非人道的な行為に怒りをつのらせている。同じ頃、欧米諸国からともに経済制裁を受けている中国とロシアはアジア一帯一路フォーラムでアジア諸国ともども団結を誓った。そこに親米の日本は含まれていない。世界は分断され、とうとう第三次世界大戦が始まるのだろうか? どこかの国が原子爆弾を落として、地球は終わってしまうのだろうか?

 黙示録によると、この世界が終わって新しい世界が始まるときに、神が再来することになっている。再来した神が最初に発する言葉が冒頭のせりふである。

"I am the A and Z,the beginning and the ending of all things,"

AとZ。「A to Z」ではない、「A and Z」だ。「A to Z」ならすべてだが、すべてではなく始まりと終わりが自分であると言っている。神は人間を創造した。これがA=始まりである。そして神はこの世界に終止符を打つ。それがZ=終わりである。そのあいだにある「BからW」については言っていない。どういうことなのか。

 私は前にマーク・トウェインの『人間とは何か』を再読して、人間は自動機械にすぎない、という見解に慰められた、と書いた。いろんなうまくいかなかったことについて、自動機械だから仕方がない、なるようにしかならなかった、と考えれば、自分を責めることもなく、楽になるのだった。しかし本当にそうなのだろうか。

 聖書には神は人間を自分に似せて創造した、と書かれている。それは自動機械ではなく、自由意志を持った生き物である。もし人間が神によって自由にコントロールできるロボット、操り人形であったなら、イブは蛇に騙されて禁じられていたリンゴをアダムと食べ、神の怒りを買い、楽園を追放されることはなかっただろうし、ノアの箱舟も必要なかっただろう。神が律法を守れない人間たちを憐れんで、救いのためにイエス・キリストを送り込む必要もなかっただろう。BからWまでは、人間が自分で作り上げていく物語である。その中で、神はダメダメな人間たちの行為を見て自分の創造した世界のルールを修正することはしばしばあった。それでもWまでの主人公は人間だ。しかし、Z、終止符は神が打つことになっている。人間が世界を滅ぼすことはないだろう。世界を終わらせるのは神なのだから。私たちは終わりを決めることはできない。しかし努力によってそのときを引き延ばすことはできる、たぶん。神はきっと、できるだけ長く、自ら創造した世界を持続させたいとお望みにちがいない。人間があまりにも堕落してしまったら、ゲームオーバーだが。

 ガザ地区にはキリスト教の教会があるが、そこに避難してきたイスラム教徒の人たちが、礼拝堂の十字架の下で、キリスト教の牧師に見守られながら、アラーに祈りをささげている写真を見たことがある。不思議な光景だが、感動的でもあった。

 アーメド・サード(Ahmed Saad)の「オリーブの枝」(Ghosn Al Zaytoon)という歌を聴いた。オリーブの枝には平和という意味がある。オリーブの枝には清らかな雫がしたたっていたが、今では雫は赤い血の色に変わっている。そのなかにモハメッドとイエス・キリストの涙が融けあうという意味の歌詞があるが、キリスト教会のイスラム教徒の祈りの写真を思い出した。私たちの世界はまだエンディングを告げられていない。まだ人間の意志によって世界を変えられるかもしれない。私は人間を自動機械だと考えることをやめてみる。神と自由意志を信じてみる。