昨日、「おとたび」のたましひはベリーズのホプキンスという村でガリフナ族の祝祭に参加しました。今日はこの国の珊瑚礁で有名な観光地、サン・ペドロのレストランに忍び込んで、ガリフナ音楽のライブを聴こうとしています。  
 その前に、ガリフナ族はどこから、どのような経緯でベリーズに来たのか? についてお話しすることになっていました。調べてみましたら、写真家冨田晃氏による「ガリフナの旋律」(「季刊民族学」67号)にこんな内容のことが書かれていました。
 1624年、西アフリカの奴隷海岸(現在のナイジェリア)を出航した一隻の奴隷船がカリブ海を航行中、嵐に遭遇し、船は沈没してしまいました。黒人たちは近くの島に泳ぎつき、なんとか命びろいをしました。この島が現在のセントビンセント島です。
 こうして生き残った黒人たちはこの島に住んで新石器文化の生活をしていたカリブの先住民の中にとけこみ、先住民と結婚して、ミックスされた子孫はガリフナ族として独自の文化、言語を作っていきました。また、この島には近隣の奴隷島から自由を求めて逃げてきた黒人たちも集まってきて、よりアフリカ的な文化が形成されていきました。
 しかし、18世紀後半になるとイギリスがセントビンセント島に進出を始めました。ガリフナ族はカリブ海でのイギリスの敵対国フランスと組んで(敵の敵は味方)、ガリフナ族の奴隷化をもくろむイギリス人植民者に反乱を起こしました。
 1763年に始まったこの戦いは32年も続きました。イギリスは本国から支援を受けて勝利をおさめましたが、ガリフナを島において支配下に置くことはあきらめ、島中に住むすべてのガリフナ5千人を8隻の船に乗せ、ホンデュラス沖の流刑島に運んで当面の食糧とともに置き去りにしました。ガリフナは170年間住んでいたセントビンセント島から追放されてしまったわけです。
 その後、ガリフナ族は中央アメリカのカリブ海沿岸に移り住み、集落を作って定着していきました。現在ではホンデュラス、ガテマラ、ベリーズのカリブ海沿岸に30万人のガリフナ族が住んでいるそうです!
 ガリフナ族はそういうわけで、一度も奴隷化されたことがない自由の民です。最初に海で遭難したご先祖さまはとてもラッキーだったと思います。白人たちが溺れ死んだおかげで奴隷にならずにすみ、命拾いをし、しかも先住民と仲良くなって子孫を残すこともできたわけですからね!
 演奏が始まりました。あれ! ガリフナの太鼓のリズムは、西アフリカのジェンベのリズムとめっちゃ似てると思いませんか? ここはアフリカだと言われても信じてしまいそうです。西アフリカから来たガリフナの先祖は伝統的な西アフリカのリズムを子孫に伝えることができたようです!
 ガリフナ音楽のなかで太鼓はとても重要で、太鼓はガリフナの魂と言われています。大きいのと小さめのと、二つで一対になっていて、アボカドまたはマホガニーの丸太の中をくりぬいて作ります。上に張る皮は、アンテロープ、山羊、羊、鹿、豚、アライグマなどさまざまです。大きな太鼓には牛の皮が使われることもあります。
 太鼓の名前は、冨田晃氏によると「ガラオン」とされていますが、ウィキペディアの英語版「Garifuna drum」の項では、「Primero」(テナードラム)と「Segunda」(バスドラム)という2つのタイプがあると説明されています。地域によって呼び方が違うのかもしれません。
「ガリフナの人たちにとって、音楽と踊りは人生そのものである。日々の生活や仕事のなか、喜びや悲しみを歌と踊りに昇華させ、労働歌や子守歌を歌う。」と冨田晃氏は記事の中で書いています。そうだとしたら、なんと心豊かな生活なのでしょう!