このところずっと仕事が忙しくて、納期が終わるとすぐ次の納期というパターンが続き、このブログ「徒然動画」もよく考えて動画を選ぶ時間がないので、行き当たりばったりのいいかげんに進んできた。昨日はニーナ・シモンがパリでシャンソンを弾き語っている動画を観て、即、決めてしまった。パリを終(つい)の住処としたことも初めて知り、意外だったのと、彼女の「Ne me quitte pas」はほかの人の歌うのと違うニュアンスがあってインパクトを感じたのだ。しかし、やはりこれ1曲だけでは不足な感じがするので、せめてニーナ・シモン自身の作品である「Four women」を紹介するべきだろうと思った。
すべての仕事が終わったので、今日は久しぶりにゆっくり寝て夕方に起きて、仕事をするかわりにYouTubeを聴いて夜を明かした。「Four Women」はブラック・ウッドストックと言われるハーレムのお祭りで歌っている動画や、フランスやオランダで歌っている動画などたくさんあり、どれを選ぶかとても迷った。4人の黒人の女性のことを歌っているのだが、「Sweet thing」(お菓子)と呼ばれる3人目の女性について語る(歌う)ときの表現の仕方が、あまりにも違っているので、たぶん、それは誰に対して歌っているか(観衆)によるのではないかと思うけれど、どれも捨てがたくてなんども聴いてしまった。結局、今日はフランス(のホテルかどこか?)で歌っていたゆっくりのバージョンを紹介して、明日はハーレムの映像をあげてみようと思う。両方いっぺんに埋め込むことも簡単にできるけれど、それをすると際限がなく動画が増えてしまうので、一日ひとつという原則を守ることにする。
ニーナ・シモンの生涯についても、私は知らなかったのだが、2015年にドキュメンタリー映画が作られていて、その映画の内容をくわしく教えてくれるホームページが複数あり、ピアニストをめざしていた彼女がなぜ歌うようになったのか、アメリカをどうして離れたのか、パリにたどりつくまでどうしていたのだろうか、など、いろいろな疑問がそれらのサイトを見て解決した。
ニーナ・シモン(生まれたときの名はユニース・キャスリーン・ウェイマン)は大恐慌の時代にノースカロライナ州のトライオンという小さな町に生まれ、兄弟は8人、父は失業していた。母は牧師を勤めたこともあったが、家計を支えるために白人の家に家政婦として雇われた。雇い主のミラー夫人が、教会でピアノを弾いているユニース(ニーナ)の演奏を聴いて感心し、「この子に音楽の教育を受けさせないのは罪よ」と言うが、母は「うちにはそんなお金はありません」というしかなかった。ミラー夫人は「それでは1年だけ私がユニースのレッスン代を工面します。1年たって彼女に見込みがあるなら、レッスンを続ける方法を考えましょう」と言う。ユニースの才能は認められ、こんどはピアノの先生が「ユニース・ウェイマン基金」を作って超名門校のジュリアード音楽院にユニースを入学させる。ユニースはクラシックのピアニストをめざすが、途中で基金が足りなくなってしまい、夢をあきらめて故郷にもどり、ピアノの教師になる。
ニーナ・シモンの運命は、もっと生活費を稼ぐためにクラブでピアノ弾きを始めたときに切り替わったようだ。ニーナ・シモンという名前になったのも、このときだった。なぜ名前を変えたかというと、クラブで働いていることを熱心なキリスト教徒の母やピアノの生徒さんたちに知られたくなかったから。しかもニーナは自分はピアニストだと思っているので歌はうたいたくなかったのだが、店の主人に「歌もうたわなければクビにするぞ」と言われて弾き語りをするようになる。その後、公民権運動が盛り上がると、マルチン・ルーサー・キング牧師の影響を受けてプロテスト・ソングを歌うようになり、彼女にとって歌うことは自分や仲間の権利のために戦うことにもなっていった。
しかし、70年代になって公民権運動が下火になると、彼女も目標を見失っていく。ニーナはアメリカを出て、アフリカで奴隷だった人たちが移住して建国した国、リベリアに移住する。それは夫の暴力から逃れるためでもあった。リベリアには娘がついてくるが、結局うまくいかなくなって娘は父親のもとへ去り、お金も使い果たしてリベリアを離れなければならなくなった。けれど、彼女が向かう先はアメリカではなく、ヨーロッパだった。
「思い返すとアメリカという国は人生のある時期にさまよいこんだ悪夢でした。でも今は存在してないかのように消え去りました。長い悪夢にうなされてきて必死な思いで抜け出したのよ。だから二度と戻る気はないわ。」
しかし、再出発しようにも、彼女の精神はすでに病んでおり、一時はホームレスのようになっているのをかつてのバンド仲間たちが救いだし、精神病院で治療を受けさせ、ヨーロッパで音楽活動を再開させることに成功する。
「自由とは、恐れのないことです。ステージの上で私は何度かそのことを感じたことがあります」
と彼女は言ったそうだ。彼女が自由を感じる場所はステージの上だったのだろう。
その後彼女は故国アメリカに帰ることはなく、2003年4月21日にフランスで亡くなる。乳がんだった。
(ニーナ・シモンの生涯については、主に「ポップの世紀」(Pop culture of 20th century)というサイトの紹介を見てまとめました。このサイトはとても充実していてびっくりです!)