図書館へ行こうとして外へ出たら、こぶしの花が咲きかけていた。窮屈なつぼみからこぼれ出したしどけない花びらは、脱皮したての昆虫の羽根のように色っぽくて、花曇りの空に似合っていた。
 府中の図書館へ行くのはちょっとめんどう。永山で小田急線から京王線に乗り換えたあと、また調布で京王八王子行きに乗り換えなくてはならない。そのうえ私は呪われたように必ず乗り換えを間違える。気がつくと、京王八王子行きじゃなくて橋本行きの鈍行電車に乗っている。あわてて次の駅でおりて、止まらないで通過していく急行(快速?)電車を見送ってから鈍行でまた調布へ戻ってくる。このボケナス!と自分を罵りながら。
 ようやく府中の駅についても、図書館への道を忘れている。最初は地図を見ながらいくから間違えないが、なんども来たことがあるんだから、もう覚えただろう、と自分を過信して適当に道をたどっていくと、いつのまにか知らない道で迷子になっている。コーヒー豆を売っているお店の人に道をきいて、ついでに家にコーヒー豆がなかったのでいちばん安い豆を焙煎して挽いてもらった。挽いてもらっているあいだ、店先に並んでいる豆を見ていたら、その店でいちばん高い豆はパナマのエスメラルダ・ゲイシャとかいうのだ。100グラムで千円以上もする。いったいどんなコーヒーだろうと思ってぼんやり見ていると、マッシュルームカットの占いおばさんエスメラルダがまんがのふきだしみたいに値札の上にポップアップしてにやりと笑った。教わった道はいつも通っていく道とちがっていた。ケーキ屋さんを通りかかったのでロールケーキを買った。ケーキ屋さんには表面に銀河と星雲をデザインしたホールチョコレートケーキがあった。思わずみとれてしまった。「ラ・ボンボニエール」というお店だ。ふだんとちがう道を通ってたまたまみつけた店だから、もう二度と自分ではたどりつけないだろうと思うが、美しいケーキだったなあ。

 府中なんて、地図でみるとそんなに遠くないのに、電車を間違えたり道を間違えたりするから大旅行だ。

 やっと図書館に着いて、カウンターで昨日電話予約した本を借りようとしたが、私は市外の利用者なので、冊数に制限があり、用意してもらった本のすべてを借りることができないことがわかった。昨日はそんなこと言われなかったのに。そのうえ、すぐそばの生涯学習センターから取り寄せてくれるはずだった本も用意されていなかった。間に合わなかったのかと思ったけれど、手続き自体の記録もなかった。忘れられたのだろう。取り寄せを頼んだのは文庫本だったが、単行本なら館内にあることは知っていた。しかたがないので単行本を出してもらった。
 図書館の閲覧室は立ち入り禁止のロープが張られていたが、図書館は市の公共施設の一部で、会議室などがある1階のロビーの窓際にカウンターと椅子があった。そこで本をひろげて引用箇所を探しだして、図書館のななめ前のファミマでコピーをし、コピーした本はすぐに返却して別の本をまた借りるということをして、すべての資料は用意できた。
 階下にはリサイクル本のコーナーがあった。そんなところは見ないようにしているが、ふと、ひょっとこみたいなお面の写真に目をひかれて手にとった本には『狂言面打ち入門』と書かれていた。なにげなくページをめくっていると、「武悪を打つ」というページに四つ葉のクローバーがはさまれていた。押し葉にされていたのだった。ややグロテスクに変色していたけれど、四つ葉のクローバーは幸運をもたらすと言われているので、きっとラッキーに違いないと思って持ってきてしまった。しかも勢いで、となりにあった『ラブおばさんのお嫁さんクッキング』という鎌倉書房の本まで一緒に。もうお嫁さんにいく歳ではないが、ぱらっとめくったその本にたけのこのあくのとり方ゆで方がくわしく書いてあって、私は近所のひとけのない竹やぶに竹の子がはえていたのを思い出した。
 挽きたてのコーヒーは移動しているあいだ芳香を放ちつづけた。また行きたいけど、迷子になる方法をおぼえていないからきっとむりだ。家に帰って一度きりのコーヒーを入れて一度きりの「ラ・ボンボニエール」のロールケーキを食べながら、『狂言面打ち入門』をぱらぱらめくった。ひょっとこだと思った面は「空吹」(うそふき)というのだった。うそつき?ではない。「貝をももたぬ山伏が~道々うそをふこうよ~」という謡の文句がある。山伏なのにホラガイも持っていないから、道中口笛を吹きながらいこう、という意味だ。うそをふく、というのは口笛を吹くということだ。口笛を吹こうとして、口をすぼめている顔がおかしかったので、空吹はちまたでこっけいなお面をかぶって踊るひょっとこになっていったのかもしれない。