この世で生きるという事はどういう事なのであろうか?
今身の回りにある 自分ではない他の存在に囲まれ
私はこの身体に宿っている。
宿っているから認知が出来る。
故に今私の身の回りのものは、「このように実存して」いる。
そして私は それら他の存在と
実存としてそれに そのような形で「触れた」事実を積み重ねている。
いままで知る事の無かった・・自分としては存在しなかった様々な事象・存在を
実存化させ 触れ その事実を積み上げている。
そして私は
「そういう事があった過去があって今」として ここにこうして居る。
それは永遠に続いていく。
それはそのまま この存在世界が どんな形であれ変化し流れ続いていく事と同義でもある。
例えの話だが
いつかこの宇宙が終わる時が来ても
この宇宙があった過去は変わらず
そことは別の所で新しい宇宙が続いていくという事もある。
また 文字で
「過去あった宇宙の情報が引き出せたり あるいはその影響が生じる事は
存在として0ではない」
という事が書けるように
いつかどのような形かで(現在はワームホールというような概念でその片鱗が語られていたと記憶しているが)
終わった宇宙も過去として 未来につながるという事もある。
存在世界の総体とはまさしく 存在しうるすべての存在が許されている世界なのだから
具体性を確保した各々が 無限に存在する世界である。
無限とは その無限性ゆえに
無限分の1という形で各個を否定しうる概念であるが
この存在世界のあり方は 存在しうるというものが
絶対的に存在しえないもの=絶対0とするモノ(純粋な無)を除いているこの1点の事実が 無限を無限たらしめない。
ゆえに存在世界の無限性は 純粋な無限には 絶対0の分「1つ」足らず
故に その具体的な「1つが足らない」という具体性・・無限性に対する不完全性から
各個が成立するという構図になって居る。

そして
私達はその 限りなく面に近い広がりを前に
ある種の価値や意味を途方も無く薄められる気がして 虚しくなる。
同時に
今ここでこうして居る事実、瞬間は 二度と訪れない。
二度と全く同じものは再現できない・・それはその瞬間の過去があるからである。
その 今という瞬間の 唯一無二の
確固たる明瞭な事実としての重さに戦慄もする。
今自分の持つ過去だけが作れるその次の今
限りなく無限の存在が許されている中での その唯一無二さと
二度とは触れられないという事実に
儚さを感じつつ

過去が変えられない以上
今ある過去から作れる次しか来ないという事への
理想へのとおさ 道のりの長さからの
疲れも感じるだろう。
私はまさにその中に居る。

しかしいくら泥のように疲れ果て
倒れたとしても その次しかやってこない。
自殺した人が 何度も霊体で自殺を繰り返すという話を聞く・
それが本当かどうかこの目で確かめたわけでは無いが

自分が嫌で その時分から逃げ出そうとして自殺をしたのならば
肉体を捨てようともその目的は達成されないであろう。
今私達にある嗜好性は 少なくとも霊体においても失われない。
今嫌いな状況に居たとしても
今嫌いな状況にいる状態から好きな状態に地続きで
移行する他手段は無い。

この世にある価値も正義も
あってないような 単なるその場のタグ付けではある。
ただ
触れて嫌になる事
触れて嬉しくなる事は確実にある。嫌になる事が多ければ
それらを消したくなる摂理からすれば
嫌な事を消すと言うことが
この世界や状況のリセット願望となる事は自然だ。

だが その世界や状況が
自分に起因していたとなれば
リセットは問題解決にはならない。

例えるのなら
どんなにゲームが上手くいかなくてリセットしても
上手くなっていなければ
また初めからやっても 同じように上手くいかなくなる。

ゲームを上手くやりたいのなら
上手くなるしかない。
コツを掴むなり
技術を上げるなり 何かしらのノウハウを身につけるなり・だ。

存在も同じである。
嬉しく楽しく存在するためには
その技術やノウハウ 知識が必要だ。
人に入るのか 犬なのか猫なのか
この星か 他の星か
どのコミュニティ どの状況に産まれるか
あるいはどの選択が可能な魂になるか・・

実際のところはどうあれ
楽しく嬉しく存在する
存在して良いなと思いながら存在する為には
それなりの条件が必要なのだ、
今はこの程度 と言う事なのだ。

この社会の大半は
共存というものの必要さに気づいて居ない。競争というものの
致命的な欠陥に気づいて居ない。
瞬間的に良い思いをして何になるというのか。
基本的に存在して居てどうか?が問われている。
競争社会 特に今の社会は
休み続ければ確実に貧困と叱責と苦しみの果ての餓死が待っている。
この世界には
死まで追い詰められるほど
存在が保証されて居ないのだ。
そして
最低限の存在状態すら確保出来て居ない状態は
つまり基本的に地獄という事に同義だ。

当然の話だが
私達は ありのままの自分が最低限認められているところに居て 初めて自然に自分として居られる。それは
最低限の話だ。
しかしこの社会では
ありのままの自分では居られない。
常に今の状況に沿ったミッションを最低限こなせ・さもなければ苦しみと死を与えられる世界だ。

そして何より
どれだけ上に上がったとしても
そのあと然るべき事をしなければどんどんと落ちる。
良い思いをしても
また嫌な気分になる。
豊かな生活を手に入れても失う。
それは向上が崩壊する事であり つまり
それは本来の意味での向上というよりは
一時の夢でしか無い。

さらに
素晴らしい文明が次々開発されても
人の暮らしは一向に良くならない。AIという素晴らしい発明が
人々を失職に追い詰めている。

素晴らしいものの良さが
競争における武器として活用されるが故の必然だ。
優れたものが
それ以下のものを駆逐する側面を持ってしまう。
素晴らしいものは広く共有されるのでも無く
また広くあまねく豊かさを広げるものでも無く
優位性として
周りから収奪してしまう。
良いものの出現が
世界の向上に直結しないシステムなのだ。

競争とはそういうものだ。
勝者が敗者を駆逐するシステムだから仕方が無い。
優れたものが 優れていないものを助ける 共存共栄とは違うのだ。

私達は 共存共栄の組織へ移行しなければならない。競争とは地獄であり
存在本来としていて良い場所では無い。
その為に
競争の醜さを知る必要がある。
その問題点と 改善策を知る必要がある。
この世界はその学びにはとても良い場所でもある。この世界で競争社会であるが故に苦しむ理由
必要性はそこにある。

だが
その学びをしたのならば
この世界において
競争社会に居るが故の苦しみを味わう必要は最早あるのだろうか。
この社会に居続け それが故に苦しむ必要性はあるのだろうか?

共存共栄を旨とする集団を作り 或いは共に参画し
運用し
生じる問題とその改善を知る事
それが 競争の酷さを知り
共存共栄を志す存在の次なるステップである。
いつまでも 良くないのが自明の理となった競争社会で苦しむだけでは
大切なステップは一向に進まない。

まずは 共存共栄を旨とする集団を作らなければどうしようも無いのだが
しかしこの世界は 現状とその問題点をある程度以上理解し
競争社会を否定し共存共栄の組織を切望する魂は
正直数としては少ない。

はっきり言えば
この社会では当面
共存共栄を旨とした組織を作り、次のために試験的に維持、運営する事はほぼ不可能であると感じられる。

輪廻も含めた総合的な知見から 次の道を探る人に吾輩は出会った事が正直ない。それはそのような話をする機会に恵まれていないところにも理由はあるだろう。
ポテンシャルを感じる人は当たり前だがゼロではない。しかし
その数は 割合で言えば極少数だろう。

大半はこの競争社会において
死ぬまでに如何に自分が良い思いをするか
そこに関心の大半があるような者だ。
故に今の競争社会が維持されている。

前述したように共存共栄を旨とするに至ったと思しき人も居るのだが
(経緯はどうであれそうなれば良いだけの話で
ここに書いているような論理展開がどこまで必要なのかは断言しかねる)
ただ
どの道 この社会では
日々苦しまず暮らすだけでも一苦労で
明確な理想を語り合う機会も
具体的に共存共栄組織を話し合い
形成出来るような場も無い。
その知見に行き着くような教育も土壌も無い。

途上国のスラムに生まれてしまったが故に豊かに暮らせる手段もなく
売春し病気で死んでいく少女のように

この世界に生まれて 望めるモノには限界がある。
ここは当面競争が変わらない世界だ。
当面極貧が変わらないスラムと同じである。

競争社会という環境が嫌ならば生まれ変わるしか無い。
これは避けようの無い事実だ。
一度死んで 生きて肉体に宿っているが故に固定された環境を脱し
自らが望んだ世界が
やってみたい事が実現出来そうなところに産まれるしか無い。

この世界では共存共栄の社会の実現は
当面厳しいだろう。
投資家の地位
不労所得の捉えられ方がここまで肯定的且つ変わらなさそうな現状
希望を持てるとは言い難い。

虐待家庭にいる少年が幸せになる為に
これ以上苦しまない為に
その家を出る事が絶対条件なのと同じで

競争社会にいる魂が
これ以上苦しまない為には
その社会を出なければいけないという事がある。
家出も大変だが
競争社会からの離脱には 基本的に死が必要ではある。どこにいても政府の手が伸び
税金を払わなければ投獄される世界で
その社会からの離脱は困難であろう。

ただ原理原則として
自らの苦しみが
自らの居る状況に起因しているのなら
それを変えなればならない。

人も 家庭も 世界もだ。

それらと繋がっているせいで苦しんでいるのなら
それらとの接続を断つしか無い。
他に変えるしか無い。

自分は他を変える事は出来ない。
自分は自分しか司っていない。
故に
自分の接続を変えるしか無い。
繋がる人 居る場所・・
持ち物も勿論そうだが。。

私達は
都合の良いようにものを物理加工する事をしてきた。
物は物理法則の存在だから
物理法則で変える事が出来る。

しかし意志存在は嗜好性の存在だ。
それは変えられない。純粋な一つの次元だからだ。
だから 物は加工できても
意志存在は変えられない。
だから選ぶしか無い。
意志存在が組織するコミュニティも然り。
形成する社会も然り。

だから
共存共栄こそ切望する世界というところに行き着いた魂は
この競争社会という
そういうものを形成する意志存在達のコミュニティから接続先を変える必要がある。
その為に
接続部である肉体を切り替えなければならないのだ。

そんな世界で敢えて自殺をすぐ選ばない理由とは
まず死は必然であり
わざわざ非常に苦しく周りにもダメージを与える自殺を急ぐ必要性が無いからである。
自殺を当面保留して
より苦しみの少ない死に期待する。
その より苦しみのない死が来るまでの間に
とんでもない苦しみが来るのなら本末転倒だ。

ただ苦しみたく無いから とりあえずここに生きている・そんな状態になる。

つまり競争の教訓を知ったのなら
より苦しみを減らすと言う理由一点のみで ここに存在する可否が決まる。
苦しんでまでここに居る必要性が無いとはそういう事だ。
ここは競争の学びの場である。
学び終わった魂は
苦しんでまでここに居る必要性が無い・という事である。

本質はモラトリアムになるのであるよ。

という事で帰結に続きます。