さて

諸々を踏まえた上で。

私が今ここでこのように居て

存在していて嬉しい存在と

存在していて嫌になる存在がある。人や物や状況など。

自分の状態もしかり。

自分の行動もしかり。

そして今は過去からの帰結そのものである。


そして未来は

今と完全に地続きな必然の中から

私達意志存在がチョイスする。



今私が見ている 陽のさした窓辺の美しい風景は

私というものの次元において

その景色 その状況 その世界として実存していて

それそのものとして私は実存を感じ(それが私という次元において実存するという事なのだが)


それが嬉しい。或いは美しいと感じる。

存在している事が 輝かしい。

存在の喜びとして

その実存がある。


あらゆる 私という次元における実存は

そのありようそのままに

存在していて嬉しいか

嫌かがそのまま本質に内包される。


それを価値としたり

意味としたり

なんとなく無理やり形容している。


この社会において 誠に下らないとされている事でも

存在していて嬉しいと感じる事はある。その逆も然り。

全ては 存在していて嬉しいか否か

そこに尽きる。それが私達意志存在の本質であり

アイデンティティの根幹でもある。


限りなくリアルに

私達は存在を愛し堪能している。

純粋にその行為として私達は

最初から存在を始めたのである。そしてこれからも純粋にその行為は

=存在するという形で進んでいくだろう。




さて

難解な話を書いてきたが

それをこの世界での生に落とし込んでみよう。


好きなものが朽ちて行くのは悲しい。

美しいものが朽ちて行くのも悲しい。

好きなもの 美しいもの 素敵なものが

栄え広がり増えていって欲しい。


それが自分と一応カテゴライズしたものであろうが

それ以外ととりあえず線引きした他であろうが

私という次元において実存するもののありようの総体が本来の私である。

故に

私にとって実存するものが

好きで 素敵で 美しく

そしてそれらが栄えていって欲しい

と言う事である。そしてそれは

ここで人としてこのようにしている今も

それ以前のどのシーンでも

常に 他が出来た時から延々と続く流れでもある。=私そのものと言えるものだ。


現時点で

競争社会は素敵では無いというところまで来た。

しかし周囲にはいまだ競争を結果的に肯定するようなレベルの意志存在が多くいる。彼等は共存共栄に行き着くには

教訓が足らない段階である。

競争社会と彼等は

繋がっていない方がより諸々が素敵になる事は事実だ。


だが離脱の第一歩である死は必然的にやって来る。故に

無理をして自殺をする必要は無い。

これ以上無駄な苦しみは必要が無い。


もう少し広く視野を取る。

所詮数十年の 束の間の滞在である。

インド旅行のようなものだ。

確かにこの社会は問題だらけの ろくでなしの場ではあるが

独特の風情

そしてプロダクトがある。まさしくインドである。

それに触れ

学ぶ事は

いずれ共存共栄の国で共により素敵な世界を作るときの

良いネタにはなるだろう。


結局のところ

私達は良いものを作り形成しあって世界を作る。

なので

クリエーション能力というのは 基礎中の基礎の大切な能力である。

クリエーション能力に対する貢献という意味で

この社会 失礼な書き方だが

広インド世界ともいうべきところに滞在する

甲斐のようなものはあるだろう。

この世界で頑張って生きていく能力は

戦場で生きていく能力であって

本当の平和の社会で必要なものでは無い。

だから鍛錬しても 正直行く行く無駄になってしまうものではある。これも事実だ。

ただそれも含めて とんでもないところだったと

笑って・広いインドみたいな国=広インド への旅行話をすることもおいおい出来るだろう。

異文化のタネ

話のタネとして

インド旅行が優れているように

広インド世界の滞在もまた ある種の魅力はある。

低民度の国への旅行とは 結局そう言うことだ。


インドならではでの陶酔もある。

喧騒の中でのチャイや

ボロボロの屋台での食事など。それはそれで甘美なのだ。

それを体感したものでないと

再現できないものがある。良さ・陶酔がある。

広インド世界でも同じであるよ。

昭和の世界も同じであったよ。


私は何を作れるだろうか?


最終的に

この社会での生の甲斐で残るのは この観点である。

どんな素敵なものが

存在の、実存の陶酔が作れるだろうか?

それのみが残る。

AIや高度な文明の産物がその高度な能力で

現存する評判の良いものを次々と 低コストでコピーをするようになっても 現在を踏まえ

より良いものを作れる存在は

評価の大元たれる意志存在だけだ。

そしてこの世には必ず偏在があり

そういう意味で この宇宙のどこかに高度な文明があるがここには無いように

最上位の製作以外の立ち位置も

必ずそこかしこにある。

ただ 自分の存在が

その知識や創作能力も含めて

その界隈で完全に貢献度として赤字になった場合は退出を余儀なくされるというだけである。

そして今私はこの広インド社会に居る。

帰国便は

ある程度の能力は必要ではある。

競争社会の教訓

共存の為に最低限必要なこと 共存原則は必須であろう。来るべき死の前にその獲得はおすすめではある。

ただそれはそれとして

この広インド旅行的な場所独自の素敵なもの 独特なものに触れ

陶酔するのは

ここならではの事だ。

そしてそれらを知る事ができたら

それらの積み重ねからしか作れないものが作れるようになる。

そうやってたくさんのタネを得る。

そういう意味では唯一無二のタネを得る場所ではある。

この ロクデモナイ世界にしかないかも知れないタネを得る。そこには怒りや悲しみもあるが

料理の中の苦味や辛さのように

マズイ味 マズイ要素もも入れ方で風味 風情となる。

スパイス料理の世界という意味でも

この世界は広インド旅行と例えるにふさわしい。



ただ

作れるところまでいかないと

タネは実存として発芽しないと・・というのはある。ただ良いものを体験し

知れば良いというものではない。それはタネであり素材であり

何かにしなければ というものではある。昭和をそのまま再現したらレトロにならず地獄になるように

知った人間が1番

良い感じに調整して

スパイス料理のように仕上げる事が出来るのだ。


この世で生きているという事は

まず第一に

競争社会の教訓を得ると言うこと

そして

広インド世界への一時の滞在と言うような

独特のタネ収集

この2つの甲斐があると言うことだ。

私達は教訓を得たら

美味しいインド料理を作るため・という意味で

ここにいる甲斐が残る。


そして私達意志存在は

究極

存在の 実存のより甘美な陶酔のみを目指している。最初から

これからも。

これもまた料理と同じだ。

広がりが多いほど

複雑高度な程

より味わいは深く 広くなる。より甘美になる。

過去が積み重なる事でそれも約束されている。


これが 私達意志存在の

今ここにいることのありようである。


弱肉強食の獣が より強い獣に食われるのは

摂理で道理だ。

その上で

やはり肉は美味い。

弱肉強食の理不尽はマズイものが多い

でも肉はうまい。

なんとか弱肉強食のまずさを減じて

肉を食べたいものである。

それと同じで

競争社会故に 競争に苦しむのはマズイ。

だが競争の楽しさ 勝利の甘美さもある。ゲームで存分に体現されている。


弱肉強食も

競争社会も

完全否定するものでは無い。

上手く調整して 美味しく仕上げるべきものである。


ともあれ今である。

今いるこの世界で 素材等で

どんな美味しい料理を 私と貴方

私の現存するこの世界に提供していくか・・

最初からずっとその繰り返しだ。



脳の微弱な電流が生じる何か超微細なきっかけが

脳の電流となり

それが行動になり

その行動がきっかけになって 外の何かや社会や他の人に波紋が広がり 世界が動く。

きっかけが何か他のきっかけを産み

波紋は大きくなって行く。

その大元は もはやあるとも無いとも分からないような微細なものになるだろう。

それは

私達が 今の私達になる

その大元の姿に似ている。


無限の混沌の中で それでも私になるような何かが発露された。

その最初は

その もう殆どその発露のキッカケというものの理由が限りなく無いように見えるような

ただの 無限(完全な無限では無い 純粋な無一つだけない無限)の中の一つとして発露した

と言うだけの状態

純粋な私としてと言う理由で発露し

私以外 他との兼ね合いから流れが生まれ

その流れの中で今の私に結実している。

全ては必然とも言え 同時に

どこまでも純粋に私として 常にここにある。

私の全てが

私において必然だ。

それと同様に

今ここで私が何かすると言うことは 大元で言えば

発露としては同じで

私が今ここでこの状態であれば必然としてこうであるという流れで

キッカケの大元から行動 そして波紋が広がっていくところまで繋がる。


全てが私というものにおいて必然と言う

純粋な私としてそこにある中で

私は私として絶対である この私としての存在の中で


私は常に

私と言う名の元にある存在を愛している。

だからこそ私は発露した。

そして同様に存在を楽しみに・来て・いる。

そして実存ポテンシャルとして

別の存在ポテンシャルとしてのソースの大元として 私以外の他があり

勿論その中に意志存在も含まれ

その繋がり方として

この世界に

私と

貴方がいる。


この世界の無限性はほぼ無限であるが故に

無限の中の一つの存在度は限りなくゼロに近いから

この世界は無限に広がり

あらゆる実存ポテンシャルはゼロに近い状態であり

そして私の名における実存化のステップで

姿を表す。


そのような存在世界で

現時点で広インド旅行のようなこの状況で

実存として

どのような料理を出していくか

狭い範囲では競争社会ではあるが

広い視野では 様々な社会 コミュニティがある上でのここである。

今この 地域で

どんな勉強をして

どんな料理を出していくか

どうその味を堪能し 愛し

次の料理へと繋げて行くか?


過去から今

その先も 結局それに尽きるのであるよ。


存在の

料理と堪能と提供

常にそれに注力し

共に他と私として楽しんでいこうと言うのが

世界に私として存在する本懐であり

それはどこに居たとしても 不変なものであるよ。