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教育・研修会社に身を置く営業のブログです。経営と人材育成のマッチング。雇用と機会の平等、組織での働きがい、キャリア・デザインなど営業現場の視点から考えていきたいと思います。

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「当時の空気ではああせざるを得なかった」という発言をときたま、耳にする。
戦艦大和の特攻出撃などは、当時の専門家や軍人の中にも論理的、科学的にも米国に勝てる見込みが
何にも関わらず、「空気」の力に押し切られるようにして多くの命を犠牲にした。

「空気」とはまことに大きな絶対的な権力を持った妖怪である。
この「空気」成るものの招待を把握しておかないと、将来なにがおこるやら、皆目見当がつかないことになる。これが本書で示している著者の問題定義だ。
今の言葉でいうと、「空気を読む」とか「KY」とか、「空気」という言葉には、人の思考を停止させ、
行動を抑止させ、それを守らない者のほうが何か痛々しい対象として捉えられることが多い。

僕はこの「空気」を探究したいという欲求に駆られた。
子供の頃から、「言わずが正しい」「自分の意志は無いのにその場の雰囲気で多数派に回る」といった
集団生活が苦手であった。
自分がおかしいと思うことがあれば、言いたいし、人の上下や優劣ではなく、あくまでも意見が違う、
という人間同士で付き合いたいと思っていた。
しかし、その場の空気で意志決定しまうことに虚しさを感じることが多かったからだ。

本書では空気の支配の要因を2つ挙げている。

 ・臨在感の支配により人間が言論・行動などを規定される第一歩は、対象の臨在的な把握にはじまり、
  これは感情移入を前提とすること。

 ・「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。

つまり、「A」という考えがあった場合、その[A」という考えを絶対的な善と捉え、感情移入し陶酔しながら、その他の考えを全て悪ととらえ、排他することだ。この場合、「A」という考えは以外は論外なってしまい、その権力はますます強まるばかりで、抑止することができなくなる。

しかしながら、この絶対的な権力に対して、本書では
「我々の社会では、常に正義の基準如く絶対化されている命題も、すべて、一種の対立概念で把握されて、相対化される」そして、あらゆる方法で空気の支配を防ぐ必要性を説いている。
特に多数決原理で決定が行われる社会では、その決定の場おける「空気の支配」は致命的になる。
責任を空気に転嫁するような意思決定は、一民族を破滅の道へとまで追いやった。


そもそも、「絶対安心」とか「100%~」とかそういった絶対的な神話は
世の中には存在しないのである。
人間、人間社会は常に矛盾に満ち溢れていて完全な正義などない。
最近はそれでいいのだと思う。そうすることで、他者も自分も常に相対化した存在として捉えることができ、両極で対峙するようなものの捉え方と空気に支配されることもなくなる。
それが本当の意味での、成熟した大人、社会への第一歩となるのだろう。

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))/山本 七平

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「西野さん、塩野七生の「ローマ人の物語」って知ってる?」
ある製造業の人事担当の方との打ち合わせの最中にふと、歴史とこの本の話になり、興味を持ったのがきっかけだ。

国内市場の縮小、新興国の台頭、円高…など外的環境の変化により、日本国内に見切りをつけ、外へ出ることが強く求められるようになっている。その言葉の代名詞ともなっているのが「グローバル」という言葉なのだろうけど、僕にはどうしても実態が掴めない。
もう少し言葉をブレイクダウンして「グローバル経営」と置き換えた場合、その言葉が指す意味は「市場を地球規模で捉え、拠点ごとの個別最適を目指すのではなく、全体最適を視野に入れた経営を行うこと。本社、現地会社と言った縦の関係ではなく、各組織体は横でつながりる」ということ。つまり、「グローバルワンカンパニー」を経営体として目指すことが最終ゴールにすることが最近の「グローバル化」論だ。

この一年、「グローバル」という言葉を自分の中に定義づける為、色々な人に話を聞き、本を読み、仮説をお客様にぶつけてきた。そして、一つの疑問が沸いている。

「グローバル化には圧倒的にコストと時間がかかる。おそらく何十年という単位での緻密で持続的な作業が必要だ。それを、今の国内市場では成長が見込めないから、海外に出て、グローバル化するという安易な発想と他者に急かされる空気のようなものに押されて、舵を取ることが本当に必要なのだろうか?出ては戻り、また0から出発する歴史を繰り返すだけなのではないだろうか?」という疑念が僕の脳裏によぎっているのだ。

そんな折、「ローマ人の物語」の話になったわけで、歴史を振り返っても2000年以上続いた帝国はローマしかない、ローマの陣門に下る諸国は、むしろローマに加わりたかったという事実を聴いた。それだけでも、わくわくしたのだが、頭の中で、もやもやしている「グローバル=世界が垣根を越えて一つとなる」という本質的な意味をローマ帝国の歴史が普遍的なヒントを与えてくれるのではないかと思うようにいたったのである。

今回読んだのは1・2巻。
ローマが建国され、イタリア半島を統一されるまでの前753年から前270年までの約500年間の物語だ。
2000年も前の出来事を、事実と仮説・検証から生まれた想像をつなぎ合わせた著者の努力に偉大さを感じた。これが学校の世界史ではわずか5行で片付けられていることにも、歴史教育のやり方を変える必要があるとも思った。

本書では、冒頭で一つの問題定義がされている。

 ‐知力では、ギリシア人に劣り、体力ではケルトやゲルマンの人々に劣り、技術力では、エトルリア  人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣るのが、自分たちローマ人であるとローマ人自らが認めて  いた。
  それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができのか。
  一大文明圏を築き上げ、それを長期にわたって維持することができたのか考えてほしい。
  「なぜローマだけが」と。

僕はこの問題定義に好奇心を抱かずにはいられなかった。
永続的な統治システムが機能した要因はなんだったのかと。これこそがまさにグローバルであると。

ローマが帝国として維持し続けたその要因の一つとして、著者はローマ人の「開放性」を挙げている。
当時の繁栄国であったアテネやスパルタが、支配した民族には当たり前のように隷属化した時代に、ローマは戦争に負けた民族にも自治権を与えた。ローマ市民権の所有者であれば、誰でも支配階級に入ることもできた。人種、国境、階層と関係なく、新しい血を導入することを忘れなかったローマは、そのおかげで幾度となく行う戦争からも再起を果たすことができたのである。
全てを同化してしまうローマは、しっかり、ゆっくりと、着実にその歴史の足跡を広げた。
その期間500年。ローマが築き上げた礎は、そののち急速な拡大をするのだろうけど、そのことにはまだ僕は触れていない。

歴史は、普遍的な法則を教えてくれるもの、というのが僕の考え方だ。
そうしてローマの歩みを読み解くと、「グローバルワンカンパニー」という企業のあり方も、筋が通っているものなのだと思う。地球規模で持続永続的な繁栄をするには、常に新しい血を地球規模で集め、入社国に関係なく開けたキャリアパスが必要で、それこそがローマ人が所有していた「開放性」と他ならないと考えるからだ。

でも、一方でその礎を築くのに500年かけたという、もう一つの事実は重い。
果たして今の日本企業にどこまで、長い歳月をかけて試行錯誤しながら、「グローバルワンカンパニー」と成りたいと覚悟を持っている企業がいるのだろうか。
自分たちの目先の利益を確保したいから、グローバル化。
もしそんな思いで取り組みを開始するのであるなあらば、「ローマは一日にして成らず」という言葉の意味を一度胸のうちに問いかける必要があるのではないかと思う。






ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)/塩野 七生

¥420
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自分自身、ツイッターを使い情報収集するものの、
これらが果たしてどこまで革命的なツールなのか、まったく理解はできていない。

でも、巷の本屋に行けば、ツイッターやFacebookでビジネスを成功させるなどの
本で溢れかえっている。

新しいもの、市場が伸びそうなもの、そこに鼻息荒く集まる群衆。
一時期の過熱した報道のような気がしていて、そこにはバブルを感じざるを得なかった。

いつか、あぶくのように破裂して、気がつけば誰もがそんなものがあってね
というレベルで忘れ去られそうで。

そんな、冷やかな目線を持っていた。
だって、ソーシャルネットワークして、ビジネスが成功するなら苦労しないよ。
もっと、本質的なことを考えないと。

革命的なツールだと言って、
検証もしない、組織、集団心理が引き起こす、一種の潮流っていつも違和感を覚える。

文脈のなかで、その手法が最適なものか、
評価と選択するプロセスが重要なのだと思う。

でも、この本「ウェブ進化論」を読んで
少なくとも、ネットの普及が物理的なITインフラのレベルを超え
ネットの「あちら側」にある情報発電所、知を再編し、知の共有をバーチャルで実現できること
を改めて理解できるようになった。

5年前に書かれた本書であるが、
今、私が普段の生活で感じる多くのことを未来予測的に示唆している。


特に印象だったフレーズ。
それは、マイクロソフトとグーグルを比較しての言葉。

-10代で「コンピューターの私有」の感動したゲイツ世代は、
 インターネットの「こちら側」への拘りを今も捨てきれずにいる。
 
 しかし10代で「パソコンの向こうの無限の世界」に感動した
 ページ/ブリンの世代は、インターネットの「あちら側」に全く新しい創造物を構築しつつある。


この世代間ギャップ、つまり何に感動して新たな価値観を創出したか。
このことの理解なしには、次世代のサービスを理解できないのだと思う。

人々を動かすもの、それはやはり生ぬるく感じられる「感情と心理」。
そして、それらが重なり合い市場が作られる。
数値やロジックだけの無味乾燥な言葉では言い表せることができない。

しかしながら、日本で起きている多くは
苦しいから、お金になりそうなところに淡い期待を描いて飛びつく。

そして、荒らすだけ荒らして、中身を吟味せず、
直ぐにあきらめて他へ標的を絞る強欲者に支配されている気がしてならない。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)/梅田 望夫

¥798
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今日は某物流企業の育成担当の方をお招きした。
次年度の管理職研修の実施に向けた打ち合わせでだ。

3月11日に発生した東日本大震災から2週間。
当初、この打ち合わせは先週の予定だったが、震災の影響により、
従業員の方の安否最優先ということで延期された。

少しずつではあるが、復興の兆しが見えて今日を迎えることができた。
まだまだ予断を許さない部分もあるが、それでも前向きな話ができるのは
お客様にとっても、良かったのではないかと思う。

今は営業をかけるのも、少しためらってしまう時期。
採用や新入社員の入社も控え、忙しくしている。

それでも、僕たち営業がお客様にできることは
元気よく伺い、要望に最大限答えられるよう努力すること。

自粛モードに意気消沈することなく
「こんな時に不謹慎かもしれませんが、それでも何かのお役に立てると思って」
そんなことを言える人間が、ひょっとしたら必要なのかもしれないと思っている。

今週、某大手企業の人材開発部長と面会した。
当初、本年度の研修の振り返りと次年度の取り組み
だったが、次第に方向性は最近に若者論について話が展開された。

僕は、この最近の若者論という奴が非常に苦手だ。
バブルの入社以前、つまり40代~50代にあたる人達は
とかく自分達の世代と比べて、最近の若者は元気がない、意欲がない、などと言う。

挙句の果てには、自律型人材を求めるなど、高度な要求を行なう。
そもそも、この自律型人材という言葉の定義すら、自社で定める努力すら
していない企業が多いにも関わらず。
果てして、彼らが若手だった頃、「意欲や使命」で仕事を選んだか、
自分の胸に当てて問い直して欲しい。

あなた達の若い頃は「本当意欲に満ち溢れていたのですか」。
本当は、若いうちに我慢すれば安定した給与と地位。
そのレール欲しさに自分を捨て、仕事に埋没したんじゃないでしょうかと。

そして、本当に若手を育てイキイキと働きたいなら、
あなたが今座っているその椅子を明け渡し、
本当に挑戦できる機会を与えればいいじゃないかと
胸の中で呟き、憤りを感じていた。


するとその方は
「とは言っても、自分がこの会社に入ったのはただ安定していたからだ」と
少し気恥ずかしそうに胸の内を開いた。

あぁ、そうかとこの時僕は思ったのだ。
多分恐らく、企業に努める中高年の人事マンは
自分達は就活も昇進もある程度のレールが引かれ、苦労せずにきたため
今のように採用時から厳選して行い、早期に成果を求める育成方針に
自分のことは棚においといてと、一種の後ろめたさを持っているのかもしれないと。

でも、それはやはり入社した時期、もっと言えば生まれた時期で
機会が左右されてしまうことになる。

確かに過去の重みは若手と年配で違うかもしれない。
しかしながら、「今を生きる」という意味では
若手もベテランも管理職も皆平等で同じ時間が流れている。


だから、「今」にフォーカスし、「今」の機会を活かした人に最大限の賞賛を与えることが
本当の意味での公平な人事評価になるのだと思う。
そして、それこそが若手の意欲を掻き立てる人事上の仕掛けなのだと思う。