作業療法理論だけではメシは食えないが、作業療法の理論がわかると生きていくためには役に立つ。キーワ-ドはひとつ「それを作業療法でいうと」ことば。

 

フライフィッシングで例えると、これは私が行き詰った時にふと本屋さんで立ち読みしていた時に手にした本が「フライ」の入門書であった。それはもう20年も前の話。

 

それ以来、生活の中にこの釣りは溶け込み人生を彩っている。フライという作業は血や肉のように体の一部になり、考え方や行動によい影響を与えている。

 

しんどい時、辛い時、「あと1週間がんばったら〇〇川でフライだ」と思えば、いやなことも少し和らぐ。決して完全にそのストレスがなくなることはないのだが、「和らぐ」この和らぐ、という効果が生きていく力になっていく。

 

人が行うこと、営み、すべては作業と、作業療法でいうことができる。その範囲の広さはとてつもないものだ。そしてそれらは使いようによっては人を豊かにしていくし、それらに出会ってない人がこれに出会うとステキな気持ちになれる。

 

今、どうしても社会からの圧で、作業だとか作業療法だとかは狭いところに押し込められているように思う。これが一般化、というのであれば、イヤな感じの一般化であると思う。

 

新規の患者さんに出会った最初に養育者に尋ねることは「子育てされてて気になっておられることは何でしょうか」だが、最近の答は「作業的なことですよね…はさみが使えない、お箸がまだ使えない・・・」などである。

 

「何でもいいですよ~”作業”じゃなくても」と再度尋ねると、「大きな声でしか話せない、お友だちをつねってしまう・・・」となる。一番困っていることに寄り添いたい。

 

作業療法ですべてが解決することはできないが、作業療法で考えることはできる。しかし、社会が「作業=手」という枠にはめ込んでいるのでそこまで届かない。

 

「社会が」というのは社会のせいのように聞こえるがその「社会」の中には我々もいる、わけで。私たちの責任でもある。

 

変えたい、社会を。