を読みましたが、
命を奪い合うことが前提の戦場であっても、それを玩具のように扱い、粗末にする者に対して怒りを覚えるのは当然です。物事には(たとえ戦争ですら)何事にもルールがあり、さらにモラルも問われます。それが戦争でなく仕事や社会生活であっても、ルールを無視したり平気で破ったりする者に対しては、毅然とした態度で怒りを表明することも大切
…このフリット・アスノの発言に関する文章、手塚治虫先生や永井豪先生や島本和彦氏やガンダムAGEのメインスタッフが語ると説得力があるのですが、サンライズが語っても説得力が無いんですよ。
障害を持っている人々や社会的弱者に対する「惻隠の心」と「仁義礼智信」が微塵も無いマンネリの作品が多いから。
事実『ガンダムトライエイジ』では「命は……オモチャじゃないんだぞ!!」のフリットはパーフェクトレアになってないし、「悲劇のヒロイン」であるステラやネーナはパーフェクトレアになったのに、同じ「悲劇のヒロイン」であるマリーダやエルピーやシーマ、「悲惨な境遇のラスボス」であるアインやルイン、ラウやゾルタンはパーフェクトレアになっていないのですから。
『機動戦士ガンダムUC』や『機動戦士ガンダムNT』、『機動戦士ガンダムZZ』や『機動戦士ガンダム サンダーボルト』には障害を持っている人々や社会的弱者に対する「惻隠の心」と「仁義礼智信」が微塵も無いから、福井晴敏や太田垣康男が何度も綺麗事を沢山言っても、「他人にはやたら手厳しい癖に自分に関しては甘くなる」から「説得力がない偽善者」にしか映らないんです。
(『機動戦士ガンダムOO』のネーナの件や『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のアインの件も、障害を持っている人々や社会的弱者を悪意の象徴のように書いている要素が強いため、私は嫌いです。キラはシンと和解できた理由はステラの件もありますが、三日月が代償を払ったのは当然だと思っています)
腱鞘炎を悪化させた太田垣康男もですが、福井晴敏は「惻隠の心」と「仁義礼智信」が微塵も無いからマリーダのファンに1度も謝罪をせず、『機動戦士ガンダムNT』をゾルタンを化け物のように描くに飽き足らず、酷い目に遭わせるマンネリからは、「障害を持っている人々や社会的弱者=悪意の象徴」という傲りと怠惰の腐臭が漂い、『ガンダムトライエイジ』の開発スタッフ・運営に「マリーダ達プル姉妹は障害を持っている人々や社会的弱者だからマリーダやエルピーをパーフェクトレアにするな。徹底的に冷遇しろ」と悪意に満ちた干渉をし、「ガンダムにおいて、マリーダ達プル姉妹やネーナをはじめとした、障害を持っている人々や社会的弱者をどれだけ叩いても問題無い」という発想や風潮が公式側にも伝播させてると勘ぐってしまうほどで、『スパロボ』でも最近は『機動戦士ガンダムUC』の参戦が「マリーダ生存確定かつリディがアンジェロを救う」展開がある作品の後は減ったことからも、「福井晴敏はガンダム界のゾルゲール哲(岡野哲)」と言われるのも納得です。
福井晴敏のマリーダ達プル姉妹に対する態度は「誰かが何らかの間違いを犯したり、あるいはそういう行いをしたという疑いが掛かった際、その人間を必要以上に厳しく言葉や暴力を行使してまで責め立てようとするが、その動機は憂さ晴らしに近く、正義感といった真っ当な感情とは程遠いもの」で、マリーダの命を奪った後のリディカスの態度は「途端に知らん顔をする所か、自分のやってきた行いを他人のせいにする等、まるで自分も被害者であるかの様に振舞うという無責任さ」に満ちていますので、福井晴敏は「自分の正当性を証明したい」、「他人の足を引っ張る事で安心感を得たい」といった極めて幼稚な動機でガンダムを書いてるんじゃないかと思ってしまいます。
仁:思いやり
義:人としての道を踏み外さない
礼:礼儀作法を守ること
智:正しい判断・知恵
信:信頼・誠実
惻隠(そくいん)の情:
「弱者、敗者、虐げられた者への思いやりと共感」という意味で、
「人を思いやる心」
手塚治虫先生の戒め
「基本的人権を虚仮(こけ)にしてはならない」
「戦争や災害の被害者を虚仮にしてはならない」
「特定の職業を虚仮にしてはならない」
「国民や社会的弱者を虚仮にしてはならない」
「作家は権力の側に立ってはならない」
手塚治虫の5つの戒めを正しく受け取った永井豪先生がマジンガーに込めた願いは尊いし、『機動戦士ガンダムAGE』でのフェザール・イゼルカントの名言である
我々は死ぬことが悲しいのではない。
人として生きられないのが悲しいのだ。
は、マリーダやエルピー達プル姉妹やシーマ、ステラやフォウやネーナ、アインやルイン、ラウやゾルタン、正弘アルトランドやロザミアやコレン、デカルトやマシュマー達弱者への手向けと敬意と思いやりにみちた言葉でもある、と私は想っています。