自分たちは違う、と思っているみたいだけど、人間も動物と全く変わりはないわ。餌場を広げるために戦争を行い、異性を引き付けるために、自分の事をよりよく見せようとする。だけど中には、そのこと自体が目的になっているおかしな人間もいるみたいね
小説 火の鳥【ヤマト編】 140ページより
一昨日の仕事帰りに、図書館で予約した手塚治虫原作・大林憲司の『小説 火の鳥 黎明編』と『小説 火の鳥 ヤマト編』(ポプラ社刊)を完読しました。
ポプラ社の小説版『火の鳥』は対象年齢を意識してか、『黎明編』も『ヤマト編』もアニメ版に近い内容であり、アレンジ要素もあり原作漫画版と比較するのも楽しく、『黎明編』での活動停止状態の火の鳥はカラカラに乾いているので、「火の鳥の肉」についての疑問も小説版の筆者の解釈があり、ニニギも設定変更故に「敵役」となっており興味深い点もありました。
『ヤマト編』の方は、アニメ版が約50分くらいでしたので、90分以上の時間があればこういう物語になったかもしれない、と思ってしまう内容になっており、オグナの父親がソガ大王ではなくオオタラシヒコという名で、原作版と比べて小説版『黎明編』でのニニギの負の要素が少し薄まったのと反比例するかの如く、滑稽で珍妙な雰囲気は微塵も無く負の感情ほぼむき出しの険しい男に変更され、オグナの兄たちも長兄と次兄のは名前が付き、個性もはっきりしており、次兄であるワカタラシヒコは油断ならない人物と感じさせ、オグナの終盤での工事内容も「素晴らしい政治とは何か」と現実世界の我々に対する問いにもなっています。
原作ではソガ大王の臨終での自分の人生の虚しさを嘆き、後悔の念に襲われるのに対し、オオタラシヒコの最期の言葉は「何故俺の思う通りにならないんだ……」でヤマトやほかの国の豪族が集まった盛大なものだったが、本当に悲しんでいる者は誰もいない、空々しい葬儀であった、という風刺もあります。
私にとって手塚治虫の漫画というのは、剣道と同じ、心に栄養を与える新鮮な空気のようなものであり、手塚治虫先生が描いた『火の鳥 ヤマト編』は原作がスクウェア・エニックスの『半熟英雄』シリーズと同じ「ギャグを丁寧に混ぜた風刺」で、今回読んだ小説版『火の鳥 ヤマト編』は『フロントミッション3』と同じ「真の強者とは如何なる者なのかを問う」、という立ち位置のように感じました。
仁:思いやり
義:人としての道を踏み外さない
礼:礼儀作法を守ること
智:正しい判断・知恵
信:信頼・誠実
惻隠(そくいん)の情:
「弱者、敗者、虐げられた者への思いやりと共感」という意味で、
「人を思いやる心」
手塚治虫先生の漫画の楽しみ方の1つが、手塚治虫先生の手による完成度を高めるための書き直しが加わるため、連載時と単行本、更には別の会社で出版された際の単行本での読み比べも楽しいものです。
以前『人間ども集まれ!完全版』を当ブログで紹介しましたが、『火の鳥 乱世編』も角川書店版と講談社漫画全集版も読み比べる価値はあります
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