先日いただいたコメントを読んで

お伝えしたい事を考えていたら

突然降ってきました。


『ごめんね。』という言葉は

謝罪の言葉


つまり「罪悪感の表れ」である

可能性がある


「罪悪感」を抱くと

人の

「自己信頼感」

「自己肯定感」

「自己有用感」

は一気に下がると私は考えています。
















仮にその情況だったとして

そんな時に、「誰かに感謝」など

果たしてできるだろうか?

とも考えました。


無理ですね…

少なくとも私にはできません。


「罪悪感」を抱いているという事は

『どこかで自分は間違えた』

と「判断」している可能性があります。


その場合、「今ここに居る」事も

『こんなはずじゃ無かったのに…』

と「否定している」

可能性があります。


だとすると

『あの出来事さえなければ…』

『あそこで道を間違えなければ…』

という「後悔」を終わらせていない

可能性があるので、


宇宙はご丁寧に

「後悔を感じ続ける情況」を

提供し続けてくれるかも知れません。

















でも、本当に

『あそこで間違えた』のですか?


『あの失敗をした』時の自分よりも

「今の私」の方が「良くない」

のですか?


「環境」や「条件」ではなく、

『今の私の声』に耳を傾けて下さい。


なぜ

『間違えた』と「判断」されたのでしょう?


お金を騙し取られたから

家族を巻き込んでしまったから

友達を巻き込んでしまったから

誰かに裏切られたから

誰かに騙されたから

誰かの具合が悪くなったから

誰かの機嫌が悪くなったから


(事情を詳しくお聞きしていないので

勝手に想像してみました)


それは、全て

「環境」や「条件」では

ないでしょうか?


その「環境」や「条件」が「良くない」

と「判断」したのは誰ですか?


「過去に聞いた誰かの価値観」

である可能性は1ミリも無いですか?















私は

『自分の感情』が「環境」を

引き寄せると思って生きています。

だから、

「誰かの機嫌が悪くなった責任」は

一切取りません。


例え自分の『発言』で

誰かを『怒らせた』としても

その『怒り』は

相手がその『感情』を「体験」する為の

貴重な「チャンス」かも知れないからです。


『感じきれば』「終わる」と

思っているので、

相手の『感じたい気持ち』を

尊重しているだけだと捉えています。













「素直」で「謙虚」な方ほど、

『相手の気持ち』や「相手の状況」

「環境」の「責任」を

一人で負ってしまおうとされがちな

気がします。


『罪悪感』は24時間365日

「罪を犯した自分」を見張って

「同じ過ち」を繰り返させないようにします。


そんな重たいものをもっている時に

誰かに感謝など

できるわけが無いと思います。


自分の中の『罪悪感』に気付いたら

まずは「見張ってくれた自分」に

『感謝』してみて下さい。


『ありがとう。休みなく

見張ってくれたお陰で

私は間違えていない安心感を感じられたよ。』


その上で

「見張られていた自分」を

癒してあげてみて下さい。


『信じてもらえなくて辛かったね。

一生懸命やったんだよね。

大丈夫。私は私が最善を尽くした事を

ちゃんと分かってるよ。』


そして、自分の好きな事をして

自分の好きな物を食べて

自分の好きな人に会って

気持ちが落ち着いたら


誰かに『ありがとう』と

言われてみて下さい。


驚く程

「自己信頼感」

「自己肯定感」

「自己有用感」

が上がるのを感じられると思います。


本当は私達は

「生まれてきた」だけで誰かに

『ありがとう』と思われている事を

思い出せるかも知れません。


まずは私から

コメントを下さって

本当にありがとうございました🙇💕


最後までお読み下さり

ありがとうございました🙇💕