ものすごく久し振りに喧嘩をしました。


















大ダメージ絶望泣





























で、一生懸命感情昇華しようとしたのですが


















全く楽にならないびっくりマーク

















やっても


やっても

















相手に『もやもや』する感情が消えない大泣き

















何でよ!?あせる
















私はこんな感情好みじゃないんだってばびっくりマーク


















宇宙だかスピリチュアルだか知らないけど、どうでもいいから

















今すぐ楽になりたいんだよ〜びっくりマーク

















何やらスピリチュアル的には「躍る」「歌う」「笑う」と波動が上がるとか?

















よし!とりあえず歌って踊ろう立ち上がる

















我が子とひたすら躍る→変化なしガーン

















何でよ大泣き全然スッキリしないじゃないびっくりマーク


もうどうでもいいから、とにかく今すぐ楽になりたいんだってば〜びっくりマーク


原因になる過去も出て来ないし


どうすればいいのよあせる


もう十分感じたじゃない〜大泣き


こんな状態早く脱出したいのに~




















と、のたうち回っていたのですが、ようやく気付きました。

















あ、コレ「感情否定」じゃないですか汗

















頭の中で聞こえる?という表現で良いのでしょうか?


自分の「声」には、感情もあるけど理性も存在しますよね。


で、この理性は、「こうした方が良い」という「判断」に繋がるものだと認識しています。


それに対して感情は、『今、こう感じている』という自分のもので、


「判断」も「善悪」もありません。

















という事は


理性が先行している

今までに蓄積された情報や知恵を基に「判断している」

今までに蓄積された情報や知恵には「他人のもの」が多分に含まれている

理性が先行している時は「他人のもの」が優先されている


















感情は、自分だけのもの

自分自身が知っていて、どの感情も体験する為に生まれてきたと仮定して生きている

だから、感情を「感じきる」までは、「体験」は終わらない可能性があると思っている

















という事は、理性という「他人のもの」を優先している内は「自分の感情」が蔑ろになっているので、

















体験が終わらない→現実問題が解決しないガーン


















という考えに至り、はっとしました。

















そうか…抑圧した感情があるという事は、


私は過去にも『自分の感情』を「判断」した事があったという事なんだ…


だから、今せっかくもう一度『感情』をかんじるチャンスが与えられたのに


「理性」を優先したら、知らず知らずの内にまた抑圧してしまうだけなんだ…


















そこで、思いっきり解放してみました。


泣いても良い

怒っても良い

恨んでも良い

憎んでも良い

絶望しても良い

失望しても良い

死にたくなっても良い

いわゆる「ネガティブ」と言われる感情でも良いよ

何でもおいで…

全部

全部

私に必要だから…




















そう『思った』瞬間に


涙がボロボロ溢れてきました。


そして、いろんな感情がどっと押し寄せてきました。


感情に溺れそうになりながら


一つ


一つ


ただ感じて泣きました。























一通り泣いたら、すっきりして、


今回喧嘩したお陰で、また一つ気付けて有り難いな~ラブラブ


という気持ちになりました。


















そして、喧嘩をした相手への『感情』を観察してみたら


『気付かせてくれてありがとうラブラブ

『あなたがいてくれたから、私は前より軽くなりましたラブラブ


という思いに変わっていました。





















これって、多分「素直で真面目」って「判断」されている人ほど、陥りがちな罠じゃないはてなマークと思って…

















あくまで私のイメージですが、素直で真面目な人って


常に「判断」して「理性」で周りに合わせて生きているような気がして…

















でも、じゃあ本人の『本当の気持ち』は?


誰が掬い上げてくれるのでしょう?


誰が救えるのでしょう?


本当は『嫌』って言っているのかも知れない


本当は『逃げたい』って言っているのかも知れない

















私は過去に、自分の気持ちを徹底的に抑圧した事がありまして


そうしたらある日


何も感じなくなりました。


















でも本当は、





















私は感じ続けていたのです。


私自身に『訴えても』私の「判断」で表に出してもらえない時間が続いたから


いつしか私の『本音』は私の「理性」に自分の感情を共有しなくなっただけでした。



















時が経ち、いろいろな出来事があり、今の私に繋がって


今の私は『私の感情』を何よりも大切に生きたいと


思うようになりました。


だから、『感じる』チャンスが有り難い事に、また、巡ってきたのだと思いました。

















恐らくこの世の中には、過去の私のように


自分で自分の感情を封じ込めてしまった方もいるのではないでしょうか?


そしてそんな人ほど、「ネガティブ」な感情を終わらせる事ができなくて、苦しみ続けてしまうという事は無いでしょうか?


頑張っているのに…


頑張っているからこそ


自分で自分を苦しめ続けてしまう…


そして


宇宙は


「自分で自分を苦しめ続ける」環境を提供し続け


いつか


『苦しい感情』をその人が体験する日を待ち続けてしまう…


そんな悪循環にはまってしまっている方が


もしもいたら





















大丈夫です。


あなたは何も間違えていません。


自分ばっかり苦しいのは


あなたが


あなたを封じ込めてしまっているからです。


他の人が苦しくなさそうに見えるのは


他の人が自分を優先しているからです。


















もちろん共存する為に、『本音』だけいつでも表に出しては生きていけません。


でも


自分で自分の『声』を聞き続ける事は、


誰に迷惑をかけるというのでしょう?


『そうだよね。』


『やりたくないよね。』


『分かる分かる〜。』


と自分に声をかけながら、「やるべきと判断した事」をやるのと


「これは私がやるべき事だから」


「みんなこのくらい我慢してる」


と自分の感情を抑圧しながら「やるべきと判断した事」をやるのでは


心の負担度が全然違う気がするのです。


















この世の中に100kgまで量れる量りがあったって


家の中に20kgまで量れる量りしか無い時に


100kgの荷物を量ろうとするでしょうか?


同様に、誰かができるから、みんなもやっているから


あなたが「やらなければならない」と「判断」したのは誰でしょう?


あなた自身なら頑張れると思います。


他ならぬ自分自身が味方なら、いくらでも力が湧いてきます。


















でも、


もしも


もしも


『本当は嫌なのに…』


『私ばっかり…』


と思った時には、自分の声を拾うチャンスを逃さないで下さい。


24時間365日、自分自身からは逃げられません。


その自分に理性という顔をした「誰かの声や判断」を休みなく届けてもらうのも自由ですが


理性という顔をした「監視を続ける」自分には、ちょっとお休みをしてもらって


のびのびと『感じる』時間を、たまには取っても良いのではないでしょうか?

















そうして『他人に癒してもらうならこうして欲しい』とあなたが思った事を、あなた自身があなたにしてあげると


あなたの『本音』は


また、『本当の気持ち』を聞かせてくれるかも知れません。


そこで、ただ感じて


「判断」しないまま


思いっきりどんな感情も肯定する事で


『本音』と「監視」に分断されたあなたは


また一つになり


「分断された苦しみ」は終わります。


今苦しんでいる誰かのもとに、これが届いて、楽になってもらえたら良いな〜と思いますドキドキ


最後まで読んで下さりありがとうございました🙇💕