今まで「感情を正悪の2つに分けない前提なのに、なぜ私は快の感情を優先するんだろう?」って考えていまして…























感情を悪者にすると自己嫌悪に繋がっちゃって波動が堕ちるけど、

















環境を調整するって考えたら、自分を大切にする事に繋がって愛の波動で満たされるんじゃないか

と思いました…✨


























具体的に説明すると、

「感情を悪者にした場合」

私の悲しいという思いは雑草
いらないもの
抜く必要があるもの
私の一部は切り離さなければならない
私の一部は存在を認められない



「私は私を丸ごと認められない」ガーン










となるけど、







「環境調整が必要な情況」と考えた場合


私は悲しいと感じている
このままでは波動が堕ちてしまう
私のピンチ
私を救う為にはどうしたら良いのか?
私を今すぐ喜ばせて愛で満たそう



「私は私を癒してあげたい」飛び出すハート





と、全然違うところに辿り着くと思ったのです。












更に「私を大切にする」にも優先順位があって、「生死」「身体」「精神」それぞれの分野のバランスを取りながら大切にしているなぁ…と思って…
















例えば「トイレに行きたいのを我慢して、我が子に授乳している時」の私を分析すると、









トイレに行きたい(身体)
とりあえず生死の危険はない(生死)
我が子を大切にしたい(精神)

という感じになっていて、











トイレに行かないのは精神の自分を優先しているからドキドキって思うと愛に満たされている自覚ができて、




















トイレに行かないのは身体の自分を我慢させているからショックって思うと、
















自分がかわいそう


私は私を大切にできていない


自己批判


自己嫌悪に繋がるガーンガーン












と思いました。正に考え方一つなのですが、案外この罠に気付いていない方も私の他にもいるんじゃないかと…











これって小さな違いに見えるのですが、毎日積み重ねていくと大きな違いになる気がします。











自分は一人しか居ないのに、頭の中では同時進行でいろんな事を考えていたりしませんか?



















私だけ?キョロキョロ

















その時に「自分の本当の望みは何なのか?」を把握して「自分が生きたいように生きている実感」をもてると、「自信」が生まれます。

















誰かに言われた言葉を無意識の内に反芻して、『自分の意見だ』と思い込むと、自分の中に「監視する自分」が生まれます。















私は最近ようやく、この「監視する自分」に『今まで私を守ってくれてありがとう。もう私は一人で歩けるし、私の声を聞いて判断できるから大丈夫だよ。』と言って休んでもらえるようになりました。
















良い人で居なくても良い。良い人で居ても良い。でもそもそも「良い人」って、どんな人ですか?





どんな体型で、どんな髪色で、どんな目でどんな鼻で…







それぞれ思い浮かべる「良い人」って違うと思います。それなのに、誰かに求められる「良い人」を目指すなんて、そもそも無理な話でした。






だって、私はその「誰かが描いた良い人」を知らないんですから。









だから、無理な事はさっさと諦めて、一度しかない人生、私は「私の為に」生きます。













だから、「私の為に」大切に思う人達には幸せで居て欲しいと思うし、このブログをたまたま読んでくれた方にも幸せで居て欲しいと思います。











そうして、みんなが「自分の為に」好きな事をして、料理が好きな人は料理をして、食べるのが好きな人はそれを食べて…












相手に喜んでもらいたい時には相手の気持ちを想像しながら「自分の為に」何かする











して「あげる」んじゃなくて、「する」











大切な人が喜んでくれたら「自分が嬉しい」から















そういう気持ちを共有できる家族が居る私は、本当に幸せ者だな〜と最近つくづく思いますラブラブ良い人じゃないかも知れないけど「私」を受け入れてくれる有り難さをいつまでも大切にしたいと思いますドキドキ

















誰かに優しくできない時は、







きっとその人自身が満たされていない時ではないかと思うのです。







だからこそ、『優しくできない…』と自分を責める前に



















『そっか。そんなに余裕が無くなるくらい、私は頑張ったんだ。凄い!よし、休もう。』















と労って欲しいと思います。



















だから私は、

誰かが怒っている時も

悲しい時も

悩んでいる時も

落ち込んでいる時も止めません。

自分が満たされていればそのままにこにこ笑っています。


だって、誰かが「感情の経験」をしている最中に邪魔はしたくないからです。
















もちろんその後で、好みに合わない感情で「環境調整」が必要なら喜んで手伝いますが、








そうではない時は

「怒る自由」も

「悲しむ自由」も

尊重したいと思っています。












大切な人が怒っている姿や悲しんでいる姿を見ているのは辛い時も多いですが、



私が「辛いから」と


相手の「感情を無理矢理動かす」のは、


「感情の経験を邪魔する」事に繋がってしまうのではないかと考えています。
















そして、「共鳴」してくれる可能性があるから、私自身は、にこにこ笑っています。


思う存分感情を経験した後に、

私の笑顔に共鳴して「満たされてくれるといいな」と願っています照れ






まとまりませんが、最後まで読んでくださりありがとうございました🙇