『ありがとう』という言葉が好きです
誰かと向き合う時に特に大切にしたいと思っています。
元々『ありがとう』は『有り難い』が変じてできた言葉らしく、『有る事が稀有→貴重』みたいなイメージで使っています。
あなたに『ありがとう』
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貴方が私を気持ち良くしてくれた事は、『有り難い』事で、とても貴重な事で、嬉しい事で。。。
そんな感謝や喜びを伝えたいから『ありがとう』
主人から、「ありがとうってしょっちゅう言ってくれるよね。」って言われて、自分はこの言葉が好きだと自覚しました。
逆に、私は『当たり前』という言葉が好きではありません。他人に言うのはとてもおこがましいと感じてしまいます
自分が相手に何かをする事、助ける事は『当たり前』でも良いと思うのですが、誰かに何かをしてもらう時や助けてもらう時は、誰かの人生の一部を分けてもらっている時だと思うのです
相手には相手の人生があって、時間は有限で、生きている内に、しかも身体が自由な内に、できる事にも限りがあります。その貴重なエネルギーや時間を私に分けてくれる事は決して『当たり前』なんかじゃなく、とても『有り難い』事だと思います。
また、プレゼントを貰った時は、その物を買うお金を稼いだエネルギー&時間、選んでくれたエネルギー&時間、届けてくれたエネルギー&時間、物そのものに込められた想い…等々全ての存在が『有り難い』と思います。
先日主人が、体調を崩した(前日から調子が悪く、あらかじめ交代を提案していたのに聞き入れず、当日いきなりヘルプコール)同僚の穴埋め日勤をし、数時間休んだだけで夜勤に出掛け、ようやく翌日の午前中に戻ってきたと思ったら、
「俺が食べたかっただけ。半分こしよう。」
と言って、コンビニスイーツを買って帰ってきてくれました。
自分はほとんど休んでいないのに。。。
他人に迷惑を掛けられた後なのに。。。
この人は、何でこんなに優しくなれるんだろう?
私は、何でこんな凄い人と一緒になってもらえたんだろう?
気が付いたら涙がこぼれていました。
「え何で泣いてんの?」
主人はびっくりしていました(そりゃそうだ)
半分ずつ食べたスイーツはとても美味しく、前日の手強い怪獣とのバトルや思うように進まない家事のイライラやもやもやをすっと溶かしてくれました。
今、家族で暮らせる事
大切な家族が誰も、大きな病気や怪我で苦しんでいない事
温かい布団で安心して眠れる事
お腹いっぱい食べられる事
大好きな人を大好きだと思える事
今日を無事に過ごせた事
本当はとても有り難くて幸せな事だと思います。
一時の感情に流されて、ふと気付くとこんな日々が続いている事を『当たり前』だと勘違いしてしまいそうになるのですが、失ってから気付くのではなく、足りないものにばかり目を向けて不満を抱くのではなく、
今ここにある『有り難さ』を大切に生きていきたいです。
ここまでお読み下さった方々『有り難う』ございました