少し戻った先からです。
 
⚪マタイ福音書の真の意味、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」

 人類に対するサタンの呪いとなったカナン人は、疫病さながら、今では地球上に拡散している。❲創世記10:18❳には「……その後、カナンの諸氏族が広がった」とある。そしてこのディアスポラによって、この民族の離散先の諸国家では問題が生じた。❲エゼキエル書16_3:45:46❳では、カナン人の氏族が個々に名を挙げて記されている。「……お前の母はヘト人、父はアモリ人である。お前の姉はサマリアであり……お前の妹はソドムとその……」❲エゼキエル書16:46❳

 憐れみの師イエスでさえ、カナン人を治癒してやってほしいと頼まれた時、彼等のことを犬として非難した。❲マタイによる福音15:22〜23❳には「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられております』と叫んだ。しかし、イエスは何のお答えもなさらなかった」とある。イエスの客は同じで、以下のように続く……「イエスが『子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない』とお答えになると……。」ここで言われている『子供たち』はイスラエルの子孫であり、子犬とはカナン人のことだ。
が、最後にはイエスは、治癒を求めて止まないこの女のために娘を癒すのである。

 カナン人の政治的集団としてはパリサイ人、サドカイ人、ゼロテ党、エサイン派、アシシン派、ヘロデ党、律法学者が挙げられる。後の一派、エサウの子孫エドム人はその後トルコ人と交わり、トルコ系エドム人を生み出した。
また、ユダヤ人学者アーサー・ケストラーによれば、現在イスラエルを占領しているハザール人として知られている人々は、この流れを汲むとされる。
カナン人はアモリの、ヘト人、モアブ知られ、ミディアン人、ペリシテ人、アンモン人、エドム人、シドン人、セパルワイム人、ペリジ人など近隣種族に分かれたが、聖書の中では、一様に非難されている。「ペリジ人は神の敵であり、アンモン人はモロク、ケモスを崇拝し、悪魔に取り憑かれていた。**半人半魚の神ダゴンを崇拝するアシュドド種族は盗人であり、神を嫌悪した。
(大英博物館の資料に拠るー原著者註)」



(**半人半魚の神ダゴン スターバックスコーヒーのシンボル半人半魚の人魚を思い出します。)


 エジプト人は黒魔術を崇拝する民として知られ、それ故、神はハガルを拒んだ。またアモリ人は神に呪われていた。❲エズラ記9:1❳。ヘトは破壊したり、脅かしたりすることを、ペリジは反目と無秩序を、セパルワイム(後のセファルディム)は革命を、エブスは踏みにじることを意味する。



⚪神殿を売春宿に、神への礼拝を性的儀式にしてエジプトを腐敗させた


 大作『ユダヤ人の歴史(The History ofJews)』で、ヨセフ・カスタインは「カナン人のカルトは土壌、とりわけ豊饒に導く自然の力の表れと深く結びつき……この力、即ち神のバールと呼ばれた……国家としての存亡に何らかの問題が生じると、彼等は唯一神と、唯一の思想、神政主義しか認めなかった。」と記している。

このように、カスタインは、カナン人のカルトは豊饒カルトだとするものの、豊饒の神としてのバール信仰は、アシュトレトの淫乱な儀式と共に、古代世界において忌み嫌われていたから、同じようや状況下で、固有名詞に言及して、バールの名を出したい時には常に、接尾辞“bosheth”(「恥ずべき」の意)が添えられた事には論及していない。
シュボシェト(サウル王の第4子「恥の人」)、メフィボシェト(サウル王の孫「恥をまく者」)などはその好例だ。

 定着先の他民族国家に対するカナン人の破壊性はエジプトで最も際立ち、かの地はカナン人の野蛮な慣習によって腐敗した最初の国家となった。
※※本来「バール」はカナン人の言葉で「主人」を意味するだけの言葉だが、その淫らな儀式から一つの民間イメージ、つまりネコの頭、人間の頭、そしてヒキガエルの頭を持つバールのイメージを定着させた。バールの妻アシュトレト(アスタルテ、イシュタルとして知られる)は、カナン人の主たる女神であり、自然界の生殖原理を象徴した。しかも、断っておくが、その儀式は性的儀式である。
バビロンではバール及びアシュトレトの神殿は通常一緒になっていて、主に売春宿として利用された。女神官が売春を行い、男神官も、礼拝者から求められれば、男娼としてそれに応じた。カナン人の神への礼拝はこうした狂宴から成り、全ての寺院は悪の中心地として知られた。また、彼等はヴードゥ教の儀式も生み出した。これは※モーセの義父であるエチオピア人エロテを通じて、エチオピアの慣習儀式となった。現在では、同じ儀式が、カリブ諸島を訪れる観光客を魅了している。


(※※これらのバールとアシュトレトの神殿での儀式は、以前ブログで「ヨガはおしゃれなフィットネスではない」で話した通り、タントラ・ヨガやその他と同じようなものであり、こちらのバールやアシュトレトのカナン人の信仰が、インドの宗教に渡ったのだとしか思えません。あらゆる点でよく似ています。勿論、ヴードゥ教もカナン人が生み出したに違いありません。)

(※Wikipediaでは、モーセの義父ジェスロ(イテロ)はアカバ湾のヒガシ端、アラビア北西部に沿って伸びる領土、ミディアンに住んでいたと記録されています。モーセはジェスロの7人の娘の一人チッポラと結婚しています。そして、義父はヴードゥ教ではなく、ドルーズ教であり主任務預言者として尊敬され、儀式や巡礼の中心人物と書かれていますが、本当にモーセの義父であるかは怪しい所もあります。)




⚪火中に投じられた幼児は豊饒の神に
 バールへの人身御供


 ほどなく単純なこの悪の儀式はバールの礼拝者に飽きられ始めた。そこで、彼等は更なる刺激を人身御供及び人肉嗜食の儀式に求めた。幼児が犠牲となり殺害されることを呼び物とする儀式である。
人々に対する自らの支配力を確たるものにしようと、カナン人の神官は、第一子は邪悪のものであり、捧げものとして、差し出されなければならないと主張した。下劣で野蛮なこの慣習は
❲イザヤ書58:3~5❳に以下のように記されている。「お前達、女まじない師の子等よ、姦淫する男と淫行の女との子孫よ、ここに近づくがよい。お前達は誰を快楽の相手とするのか。誰に向かって大口を開き、舌を出すのか。お前達は背きの罪が産んだ子等、偽りの子孫ではないか。大木の陰、全ての茂る木の下で身を焦がし、谷間や岩の裂け目で子供を屠る者等ではないか。」

 このようにみると、イザヤは血に飢えた狂宴の淫らさ、いやらしい笑みばかりか、木立や聖地でセムの子孫の目を盗んで行われている恐ろしい儀式として、今日では定着した感のある幼児殺害をも激しく罵っていることになる。

 ソロモン王はそうした幼児殺害者の影響を受け、ミルコム(ヘブライ語で「王」を意味するメレフから派生、モレクとも言う)の祭壇を再建した。❲烈王記上11:5~8❳。モレクなりモロクなりは、その祭壇に大きな火が焚かれた事で、礼拝者の尊敬を集め、両親は、神官によって火の中に子供を投げ入れることを余儀なくされた。

 マカリスターは1904年から1909年にかけて、パレスチナ調査基金の後援で行われたゲゼル(この地の統合者を自認したのはカナン人による淫らな儀式を辞めさせた、ファラオのメルネプタハだった。)の発端で、紀元前1500年頃のカナン人の時代の瓦礫の中に「神殿」跡を発見した。
それはアシュトレトの神殿で、150cm〜330cm程の切り出したままの石柱が10本立てられていた。その前に生贄となった人が捧げられたのである。更に、この「神殿」跡からは、多数の壺(そこにはバールに捧げられた子供達の遺骨が入っていた)も発掘された。
もう一つ恐ろしい慣習は、『人柱』と呼ばれたもので、これは家を建設するとき、他の家族に幸運がもたらされるようにと、子供を生贄に捧げたり、その体を壁に塗り込めたりする行為だった。こうした跡はゲゼルで多く発見されているものの、メギド、エリコ等でも発見されている。」(ハレー著『聖書ハンドブック』)

ハレーはまた、この「神殿」では、性行為を喚起させようと卑猥なまでに生殖器を誇張したアシュトレトの偶像、石版等も(マカリスターによって)大量に発見されたと指摘している。大きな胸、印象的な目、官能的な笑み、裸身、これらはカナン人の影響下にあった多くの地域で発見されているアシュトレトの偶像の特徴である。この悪魔じみた性崇拝は、ハムが方舟の中で魔女のナァマと交わった事に起源がある。「ナァマはその美しさ、才能、活力、肉欲、残酷さで知られていた。そしてネフィリム(堕天使)の血筋にあった」と記している。

 ユダヤ百科事典によれば、カナン人の悪魔の代表格はヴァンパイアのリリス、災いの神にレセフ、悪病の神デヴェル、冥界の神にモト(ヘブライ語で死を意味するマヴェトに由来)だとされる。



⚪ユダヤ民族は呪われたシェラ人を
 母とするユダの末裔


 地球上に拡散したのはカナン人だけではない。セムの子孫も数を増やし、家系の為により大きな機会を求めて各地に散った。各国を巡り、今日に至る王国や王朝を築いた。

欧州諸国の国王、指導者はユダの末裔であると認める人は多いが、彼等は一つの重大な事実を認識出来ていない。欽定訳聖書にも全く記されていないが、それはユダの末裔は3つに分派しているという事実だ。
ユダの末裔を一括りにする人々は、そこに汚れた一派が存在した事に気づいていない。タマルから産まれた純粋のユダの子孫ペレツ及びゼラの家系に加えて、第三の家系、カナン人の母親シュア(呪われたシェラ人として以後知られている)から産まれた家系が存在しているのである。

タマルはセムの末子アラムの娘であり、シュアはタマルの息子達を「婚外の性交渉から誕生しているから、私生児であり、双子のペレツとゼラこそ、アダム人の血を純粋に受け継ぐユダの嫡子」と主張した。
セパルワイム人(世間を欺く為に使った名)を含むユダヤとサマリヤのカナン人の31もの名を持つ呪われた民族は、このシェラ人の子孫である。

 ペレツとゼラが産まれる時、胎内に双子がいる事を知った産婆は、相続権のある第一子に印をしておかなければならないと考えた。そこでゼラの手首に赤い糸を巻き付けたが、「出し抜き」によって最初に生まれたのはペレツの方たった。メシアはペレツの子孫であり、ペレツとゼラの誕生以来、ずっと存在した「出し抜き」を解消するために神に遣わされたと言われる。

 ペレツとゼラの母親タマルには、アイルランド伝説で「ファラオの娘」として知られるタマル・テフィという名の子孫がいた。この子孫は「緋色の糸の王子」として知られたアイルランド王エオカイドと結婚した。
こうしてペレツとゼラの家系は再び一つになった。その後、緋色の糸は英国史の中で不可欠な一要素となった。現在も、英国海軍によって利用されるロープには全て一本の赤い糸が象徴的に編み込まれ、英国王に提出される公文書には赤い紐が必ず結ばれている。

 また「赤い紐」という言葉も残っている。これは、いかなる国事が行われる時にも、それに先立って赤い紐が解かれなけれならないとするような官僚的形式主義を意味している。 
更には、「赤い絨毯」という言葉もある。
こちらは、国王が歩く時には、それに先立って赤い絨毯が敷かれなければならないという伝統、即ち丁重な歓待を表している。

 タマルの父親へレモンはタマルに結婚を許す前に、当時アイルランドでは慣習となっていた「蛇崇拝」と「ベル」の儀式の放棄を求めた。すると、蛇はアイルランドから姿を消し、今日でもそこに毒蛇は存在しない。 
後の伝説によれば、蛇をアイルランドから追いやったのは聖パトリックだとされている。いずれの伝説もカナン人及び、蛇の子孫による悪魔的慣習に目を向け、カナン人を追放する事でYAWHの真の宗教の地、或いはセムの子孫の地として、アイルランドが建設されたとしている。蛇がいなくなったということは、カナン人の魔力がアイルランドから消えたという事である。

 (略)

 「ミレトス人の植民地はスペインからアイルランドに達したが、彼等はスペイン人ではなかった。西へ向かう途中でその地に滞在した東方の民で、『祖先ガデリウスの末裔に約束された島を探している』と彼等は言った。ガデリウスはスキュティアの王の末子ニウルの息子で、子供の時、毒蛇に噛まれ死にかけた。その時、彼の父親はモーセを説き伏せ、杖を使って息子を治療してもらった。その日以来、ミレトス人は、毒蛇の死骸とモーセの杖を描いた旗を持って西進を続け、ついに毒蛇のいない島を発見したのだった。」

 (略)

 初期の記録を見ると、アイルランド人とブリテン人は歴史的に敵対関係にある事が示されている。紀元296年、アプレイウス❲ローマの哲学者、125?~? 訳者註❳は「2つの種族、ブリトン人とイベルニア人」について記した。エウメニウスも常にヒベルニアをブリトンの敵として記した。紀元前58~50年のゴール戦争についてのシーザーのメモには「ヒベルニア、ブリテンの西」と残されている。


⚪交易で財を蓄え、銀行家として
 世界を支配するカナン人

 こうして、世界には対立的な2つの潮流が生じた。一方はセム人として知られる高度に創造的で建設的なセムの子孫、一方は、それに対立する「呪われたカナン人」である。
カナン人は歴史的に反セム的で、長身で金髪に青い目をしたセムの子孫と敵対してきた。
立派な戦士として常に知られるセムの子孫は軍事的衝突となると、あっさりカナン人を圧勝し、多くの場合において、彼等を放逐、全滅させて神の命令に従った。それでもセムの子孫の敵対者はスタミナ十分だったらしく、一国から放逐されても、また別の国に現れ、同じ形の腐敗と背信行為を続けた。

 セム人が大帝國の建設に余念のない時期、つまりアッシュールがアッシリア帝国をキュロス王がペルシア帝国を建設し、セム自身もエジプトに一大文明を築いた時期には、敵対者達はその資質に磨きをかけていた。彼等は交易、通商の才を始め、移動する才覚、どの国家にあっても、どの民族の中にあっても自国にあるように振る舞える才覚があった。彼等はヨーロッパの奥地にあえて踏み入る勇気に欠けていた為、沿岸地域に植民地を建設した。
そしてセムの子孫は、そうしたヨーロッパの奥地に自らの国を築いた。カナン人は常に「カナンの遺言」に従い、どのような環境下でも同胞に対してのみ忠実だった。そして盗みと姦淫を愛し続け、師即ち、彼等の腐敗した生活様式に干渉しようとする者をことごとく憎み続けた。そして真実を語ることを常に拒んだ。
こうした不変の教えに従う事で、彼等はセムの子孫に対する戦争に不可欠な武器を自在に操った。
一方、セムの子孫は個人主義に徹するあまり、それぞれの帝国を、それぞれの家系を互いに対立させる事も辞さなかった。この思い上がりのせいで、彼等の民族的或いは歴史的使命は常に後回しとされた。

 中世の時代において、セムの子孫はチュートン騎士団(何百年もの間無敵を誇った戦士集団)のような宗教騎士団において、最もよくその特質を発揮した。一方反セムの人々は、せっせと交易路を拡大し、交易からあがる利益を蓄え
(今日でも、カナン人に対する昔からの偏見の一つとして、英国の貴族階級は交易に携わる人々を蔑む)、それを資金に、とうとう全世界に力を及ぼす銀行家となった。

 十字軍の時代は、彼等がこうした目的を果たす為の大きな機会となった。十字軍によって、知られている限りの世界に、交易路が開かれたばかりでなく、浸透と腐敗の道が切り開かれたからだ。これによってカナン人は更なる利益を蓄えた。
キリスト教徒の騎士団が十字軍として遠征し、キリストに仕える事に専念していた時、カナン人は自国に留まり、様々な策略を巡らせて、留守にしている騎士団の金や財産を奪った。

 (略)

 チュートン騎士団は1201年、ラトヴィアのリガの町を建設し、1220年にはエストニアを、1293年にはプロシアを征服し、その軍事的な伝統は第二次世界大戦が終わるまで長らえた。解散したのは1809年だが、2つの世界大戦の間ドイツを支えたその軍事組織の設立を促したのはこの騎士団だ。

 1939年、モロトフ、リッベントロップ条約の締結でヒトラーはその誇るべき歴史に終止符を打った。この条約によって、エストニア、リトヴィア、リトアニアといった諸国、即ち古くからチュートン騎士団の拠点だった地域が共産主義者ないしは、カナン人に譲られたばかりでなく、結果としてプロシア人の伝統の最後の後継者、チュートン騎士団の最後の生き残りの郷土全てが新興勢力ソヴィエトの手中に落ちたのだった。 








……と、ここまでで前回に書きました通り、上記のセム人のイメージに対して個人的には違和感があります。絶対自分の考えが正しいとは言えないので、そこは読者様のそれぞれの考えに任せたいと思います。