●ラスカーの相棒エルマー・ボブスト

 ラスカーが米国ガン協会を米国医学界の最高の地位につけた時の相棒エルマー・ボブストも、強大な支配権を握った。彼はラスカーと違っと貧しい家庭の出身であった。米国出身の起業家P・T・バーナム(米国の興行師、サーカス王)は、「カモになるやつはどこにでもいる。」と言ったが、ボブストもバーナムと同様、生まれながらに宣伝屋の資質を備えていた。
エルマー・ボブストは1911年に製薬会社のホフマン・ラ・ロッシュ社に入り、営業マンとしての才能のおかげで最後は社長にまで上りつめた。彼は経営者としての洞察力にも長けていた。第一次世界大戦が終わってすぐ、物価が下がると確信していた彼は、会社がニュージャージーの倉庫に山のような在庫を抱えていることを知って驚いた。そこでまず、イーストマン・コダック社(写真フィルムのメーカー)が、5トンの臭化カリウムを買うという契約を大急ぎで締結した。臭化カリウムは、鎮痛剤の主成分としてでなく、印画紙の主成分としても使われている。そしてボブストは、在庫品の臭化カリウムを1ポンドあたり60セントと、市価より10セント安い値段で提供した。しかし、その2~3週間後には、市価は1ポンド16セントまで値下がりした。ボブストがホフマン・ラ・ロッシュ社で成し遂げた偉大な業績に、ビタミン剤の広告宣伝キャンペーンがある。この宣伝が大成功だったので、ボブストには「ビタミン王」というあだ名が付いてしまった。更に株式売買で何百万ドルも儲けたので、新天地を求めてホフマン・ラ・ロッシュ社を退職することにした。
1944年に、クーン・ローブ商会の顧問だったクラヴァス・スウェイン&ムーア法律事務所を呼んで、顧問契約を交渉した。その結果、ボブストに非常に有利な条件、つまり初年度15万ドル、75歳の誕生日までは毎年6万ドルということで決着した。ビタミンを売り歩いて財産を築いたボブストは、今度はもっと値の張る薬の分野への進出を考えて、ワーナー・ランバート社❲1920年設立、本社ニュージャージー州❳のトップに就任した。この会社の目玉商品は口臭防止剤「リステリン」であった。

 ジェラルド・ランバート自身もただの行商人というにはぼど遠く、「ランバート薬局」を一大帝国に育て上げた人物であったが、その方法はもっぱら「息が臭い」ことの危険性を執拗に警告するというものであった。口内洗浄剤を発明したのは彼の父親だったが、息子のランバートはこの新商品に医学史上最も有名な人の名前を流用した。つまり、防腐薬と病院内の無菌法を開発したジョーゼフ・リスター男爵の名前である。リスター男爵は英国の著名な外科医で、英国のヴィクトリア女王が生涯に一度だけ体にメスを入れさせた時、その手術を執刀した医師であった。ところが、その彼の名前が、ジェラルド・ランバートの「リステリン」の全面広告のおかげで日常語になってしまった。広告の見出しはこう警告していた。
『親友さえ(口臭のことを)あなたに教えてくれない』ランバートは息が臭いという症状に対してラテン語からhalitosis(ハリトーシス、口臭)等単語を引っ張り出してきて新語を作った。

 (略)

 ボブストはまず、鋭い洞察力でアルバート・ドリスコルをランバート社の社長に任命した。ドリスコルはそれまで7年間、ニュージャージー州の州知事を務めたばかりの人物であった。また役員としては、ウォール街で最も抜け目ない頭脳、ゴールドマン・サックス社のシドニー・ワインバーグとエバスタート社のフレデリック・エバスタートを招いた。更に広報部長賭して、永年ロックフェラー家の為にロックフェラーセンターで労使関係の役員を務めたアンナ・ローゼンバーク女史を呼んだ。彼女を呼んだことで、ボブストはロックフェラー家との重要な繫がりを持つことになった。何故ならアンナ・ローゼンバークはその後も以前の雇い主達と密接な関係を保ち続けたからである。

 ワーナー・ランバート社を拡大する野心的な計画を知っていたのは唯一ボブスト自身だけだったので、彼は自分で自分の会社の株を大量に買いまくった。その結果、株価は何倍にも膨れ上がり、ボブストは何百マンドルもの株式を所有する大株主になった。おかげで彼の生活ぶりはフォーチュン誌で「封建領主の生活、ニュージャージーの広大な地所、スプリング湖に浮かぶ87フィートのヨット、ニューヨークにあるウオルドーフ・ホテルのスィートルーム」と描写されるほどになった。事実、ボブストは5隻のヨットを続けざまに購入し、船のサイズは買う度に大きくなっていった。
……ボブストは二度結婚しているが、一方はレバノンの国連代表団の一員だった。彼は第二次大戦中、ニュージャージー州で戦時債募集局の局長を務め、また選挙戦でも大口の寄付者となった。このため共和党の黒幕として大きな影響力を持つようになり、次に説明するように自分の息が掛かった人間を大統領に就ける事が出来たのである。

ニュージャージー州で、ボブストが議長を務める選挙資金調達の貯めの集会が開かれた。この会議では、ロスチャイルド系銀行のナショナルシティー銀行クリーヴランド支店出身で、アイゼンハワー政権の財務長官だったジョージ・ハンフリーが、演説を行う予定だった。しかし彼が病気になった為、代わりに副大統領のリチャード・ニクソンが出席した。これがきっかけでボブストとニクソンのほとんど親子同然の親密な関係が始まった。

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 ニクソンが将来の見通しをほとんど持っていなかった頃、ボブストは顧問弁護士のマット・ハロルドを訪ねた。ハロルドはウォール街にあるマッジ・ローズ&スターン法律事務所の上席共同経営者であり、ワーナー・ランバート社は最大の取引先であった。ボブストがニクソンをワーナー・ランバート社の共同経営者に招きたいと「提案」すると、ハロルドはただただ喜ぶばかりであった。これを足掛かりとしてニクソンは政治活動に乗り出し、大統領に就任する事が出来たのである。このボブストの根回しは、結果的に賢い投資となった。ニクソンが大統領選に勝った後、ニュージャージー、ネブラスカ、ケンタッキー、ウェスト・ヴァージニア州の共和党の州知事は、無税の債権事業の全てをマッジ・ローズ法律事務所に委託し、その結果、同社は年間100万ドルもの追加利益を得たからである。

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⚫米国癌協会に関わった人々

 これよりずっと昔、1929年にクラレンス・D・リトルは、ロックフェラー家の指名によって米国癌協会の会長の地位に就いた。ロックフェラー家はリトルとは古くからの付き合いで、デザート・アイランド山の別荘に彼のために研究室を作ってやった事もあった。けれどもリトルは癌には全く興味が無いようで、ほとんどの時間を米国産児制限連盟。安楽死協会、優生学協会の会長としての活動に費やしていた。因みに優生学協会は、ハリマン家のお気に入りの事業である。
リトルは1943年に、米国癌協会の研究に1セントも費やさなかった事を公に認めた。彼は以前、ミシガン州立大学の学長を務めていたが、その頃はハーヴァード大学の監督管になっていた。リトルが癌協会の指揮を取ってからは、癌研究者達がたまにニューヨークで会合を開くだけの、単なるエリート小集団に過ぎなくなってしまった。その後リトルは協会を去り、何年も経ってから米国癌協会はボブスト等によって、もっとビジネスに徹した組織に再建された。けれども相変わらず、癌の治療に関して何の実質的な成果も挙げないという記録だけは積み重ねられた。
……ボブストとラスカーの影響による癌協会の体質は、スローン・ケタリング・癌研究所の活動にもしっかりと根付いた。おかげでこの研究所は昔からずっと次のようなモットーを持っていた。「研究には何百万ドルもの金を費やせ。治療には1セントも費やすな。」

 チャールズ・マッケイブはサンフランシスコ・クロニクル紙の歯に衣着せないコラムニストであるが、1971年9月27日の紙面でこう述べている。
「皆さんは、米国癌協会や癌研究の財団、もしくは他の尊敬されている団体に所属するメンバーが、本当に癌を治すことに関心があるのか、と疑っているかもしれない。あるいはひょっとしたら、自分達の組織を存続させるために、この癌の問題が無くならないように望んでいるのではないか、と。」

 ボブスト、ラスカー体制の下で面目を一新した米国癌協会ではあったが、理事会はいつものようにロックフェラーの仲間の面々が名前を連ねていた。

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⚫マティルデ・J・クリムの数奇な経歴

 ナチス高級幹部とシオニズムのテロ組織「ハガナ」Haganah(ユダヤ人防衛部隊、1918〜)及び「イルグン・ツヴァイ・レウミ」Irgun Zuai Leumi(民族軍事組織、1931〜)だに、第二次世界大戦の終わり頃から親密な関係があったという事実が暴露され、これによって世界史に新たな興味深い「脚注」が付け加えられた。当時シオニスト達は、英国をパレスチナから追放する為に活動していた。ナチスもまた英国と交戦状態にあった。その為に20世紀で最も奇妙な政治的同盟関係が生まれたのであった。この時ドイツ国防軍諜報局Abwehrとの協同行動を主張した中心人物の一人が、元イスラエル首相のイツハク・シャミルである。
大戦後、シオニスト達は英国に対抗する軍事力を整備する為に多くの元ナチ党員を雇った。このナチス・シオニスト同盟の指揮者が、かつてのシュテルン・テロリスト団、現在のイルグン・ツヴァイ・レウミの古参兵メナヘム・ベギン(元イスラエル首相、ノーベル平和賞受賞者)まさにその人であった。
ベギンの手下の一人に、テロリスト仲間にマティルデ・Jという名で知られた若い女がいた。

……この「マティルデ・J」こと、現在の「クリム夫人」は、『現代伝記辞典』には「遺伝学者」「慈善家」と記録されている。彼女は生物学専門研究者として、米国癌協会に永年務めている。若い頃シオニスト組織のイルグン・ツヴァイ・レウミに参加し、団結の証しとして仲間のテロリストと結婚した。しかし直ぐにベギンのお気に入りとなり、夫と離婚した。
ベギンはテレビ番組『シックスティー・ミニッツ』に出演し、マイク・ウォリスに「中東の政治にテロリズムを初めて導入したのはあなたですか?」とにやにや笑いながら尋ねられた時、力を込めてこう答えた。
「中東だけではありません。全世界です。」
これは全世界に股にかけたテロ活動を行うイスラエル諜報機関「モサド」のことを指していた。モサドの活動は、全てCIAの資金によって賄われている。勿論その資金は我々米国民から税金として奪ったものである。

 その後マティルデ・Jはイスラエルのワイズマン研究所に入った。彼女はある日、この研究所の最も裕福な米国人の理事を紹介された。それが映画界の大立者アーサー・クリムであった。二人は結婚し、マティルデは米国国籍を手に入れた。クリムは永年に渡り、大手映画会社権益を代表してロビー活動を行ってきた。またシオニズムの宣伝・煽動活動を行なう組織網のために、募金活動をしてきた主要人物でもあった。また、リンドン・B・ジョンソン大統領とは、選挙資金調達役として親しい友人関係にあった。

 イスラエル軍が米軍戦艦リバティー号を攻撃し、多くの乗員が殺されていた頃、クリム夫妻はジョンソン大統領からホワイトハウスの来客として招かれていた。リバティー号の救助に向けて、米軍の他の戦艦から先頭器が離陸した時、どういうわけか「すぐに引返せ」という命令がホワイトハウスから送られて来た。その為イスラエル軍は、何としてもリバティー号を沈没させようと、さらに数時間に渡って自由に攻撃を続ける事が出来たのである。
彼等の目的は、この船が所持していた無線記録を葬り去ることにあった。それにはイスラエルが6日戦争(第三次中東戦争)を仕掛けたという証拠が記録されていたのである。
一般国民は、この時米軍機に引返すように命令を出したのはクリムであった、と信じているが、現在に至るまで何の捜査も行われていない。今ではジョンソンは亡くなり、ホワイトハウス発の恐ろしい大逆罪の見本に立ち会った生き証人は、クリム夫妻だけとなった。
実はCIAは、攻撃がリバティー号に向けられる事を24時間前に知っていた。しかし米国を戦争に巻き込み、イスラエル側について戦わせるために、情報は握り潰されたのである。おまけに、「エジプト軍」が攻撃を仕掛けるだろうというニセ情報まで、あらかじめバラ撒かれていたのであった。

 マティルデ・クリムは現在、ロックフェラー財団の理事である。彼女と夫のクリムは米国黒人研究所の理事も務めている。夫のアーサー・クリムはニューヨークの左翼運動を永年支援してきた経歴の持ち主で、ニューヨーク社会研究所やヘンリー・ストリート・セツルメント、フィールド財団といった左翼団体に資金援助をしてきた。また、ユナイテッド・アーティスト社(現在のオリオンフィルム)の会長でもある。

 血に染まったテロリスト、レーニンの友人である事を、アーマンド・ハマーは自慢の種にしていたが、クリムはハマーの個人弁護士として、彼の持つ2つの大企業、アイオワ・ビーフとオキシデンタル石油の重役を務めている。
更に民主党財政委員会の議長、コロンビア大学理事会の会長、リンドン・B・ジョンソン財団の理事を兼務している。




 まだ、第3章は続きますが、
今回はまた、長文を勝手に消されたのでここまでにしました。


 読んで下さる方々に感謝致します。
 めげずに頑張りますね。^_^