⚫スローン&ケタリングの資金援助

 1930年代、自動車産業の2人の大物がメモリアル病院に寄付するよう説得を受けた。アルフレッド・P・スローンは永年ゼネラルモーターズの社長を務めた人物で、J・P・モルガン商会の重役でもあった。彼は1938年にはゼネラルモーターズの株式を75万株持っていた。また、1940年当時の金で125万ドル相当の全長235フィートのヨットを所有していた。
チャールズ・ケタリングは現在も自動車で使われる点火装置・照明・スターターなどの電気機器を考案した正真正銘の天才発明家であった。 1960年当時、2人の遺産はスローンが2~4億ドル、ケタリングが1~2億ドルと推定されてた。ゼネラルモーターズ社で起こったある問題のために、アルフレッド・スローンの慈善事業家としての信用が多少傷ついたことがある。GM社製の「シボレー」に安全ガラスを採用することに、彼は断固反対したのである。1920年代には、車に安全ガラスがついていなければ、比較的小さな事故でもフロントガラスやサイドガラスが割れ、砕けたガラスの破片が車内に飛び散って運転者が重傷を負ったり死亡する可能性があった。しかも、当時は車の数が比較的少なかったので、車の普通のガラスを安全ガラスに取り替える事は可能であった。今日では、全ての車に安全ガラスの使用が義務付けられている。スローンはこの件に関し、1929年8月13日に公式に次のように述べた。
「安全ガラスを採用すれば、我が社の利益から多額の余分な費用を費やさなければならない。ゼネラルモーターズ社としては、安全ガラスを採用して余分な費用をかけ、車の値段を上げるべきではないと考える」

 1932年8月15日にも、再びスローンは自社の車に安全ガラスを採用することに反対する発言を繰り返し、不満をぶちまけた。
「私の仕事は安全ガラスを売る事ではない。同じ金を使うなら、もっと別の方法で我が社の車を改良することに使った方がました。ビジネスの点から云えば、その方がよっぽど意味がある投資だ」

 現在アルフレッド・P・スローン財団の経営は上手くいっている。1975年に2億5200万ドルだった財団の資産は、1985年には3億7000万ドルに達した。この財団とチャールズ・F・ケタリング財団(資産7500万ドル)が、スローン・ケタリング・癌センターに資金援助を続けてきた中心的な慈善団体である。

 現在、ケタリング財団の理事長を務めるのは、リベラル派の編集者ノーマン・カズンズ
(核軍縮運動に従事した米英ジャーナリスト)である。



⚫アルフレッド・P・スローン財団理事名簿

 アルフレッド・P・スローン財団の理事会
メンバーを見てみよう。

 (※一部は略しています。)

 ○R・マニング・ブラウン2世
アルフレッド・P・スローン財団理事 

 ○ヘンリー・H・ファウラー
前財務長官で、現在はニューヨークの投資銀行ゴールドマン・サックス社の共同経営者である。

 ○ロイド・C・エラム
テネシー州ナッシュビルにある唯一の黒人医学校メハリー大学の学長である。また巨大医療企業のメルク社やクラフト者、サウス・セントラル・ベル電話会社、ナッシュビル銀行の重役も務める

 ○フランクリン・A・ロング
エクソン社の取締役として、財団内でロックフェラーの代理人の役目を果たしている。またユナイテッド・テクノロジー社の役員、大統領科学諮問委員会の委員、1936年からはコーネル大学の化学教授を務め、グッゲンハイム助成金(グッゲンハイム記念財団より芸術家・学者に対して与えられる)を授与された。更にアルバート・アインシュタイン平和賞を受賞したこともある。パグウォッシュ会議の米国運営委員会の委員でもある。この委員会を発足させたのは、ロックフェラーに可愛がられた、共産主義シンパとして有名な資産家サイラス・イートンであった。因みにパグウォッシュ会議(アインシュタイン等が提唱した核兵器廃絶・国際平和の為の国際会議)は、KGB(ソ連国家保安委員会)の指示によって設立されたと言われている。

 ○トマス・アキナス・マーフィー
ゼネラルモーターズ社の社長を永年務め、
ペプシコとナショナル・デトロイト社の重役でもある。

 ○エルモア・E・パターソン
1935年からJ・Pモルガン商会に務め、現在スローン・ケタリング・癌センターの財務担当である。またベツレヘム・スチール社、エンゲルハード・ハノビア社、モルガン・スタンレー社の重役でもある。

 ○ローレンス・S・ロックフェラー
リーダーズ・ダイジェスト社の取締役、米国地理学会の理事、カニール・ベイ農園の重役である。

 ○チャールズ・J・スキャロン
ゼネラルモーターズ・アクセプタンス(手形引受)社、ニューヨークのアラブ・アメリカ銀行の役員で、同じくニューヨークのルーズベルト病院の理事でもある。

 ○ハロルド・T・シャピロ
ミシガン州大学の学長でダウ・ケミカル社、
フォード自動車、バローズ社、ケロッグ社、カナダ銀行の各役員である。彼は1984年から中央情報局CIAの顧問団に参加している。また財務省の顧問も務めている。



⚫メモリアル・スローン・ケタリング・
  癌センター幹事会理事名鑑

 メモリアル・スローン・ケタリング・癌センターには、「幹事会」Board of Managersと「監督会」Board of Overseersと呼ばれる2つの理事会がある。まず幹事会の理事構成を見てみよう。まるでロックフェラー持株会社の財務諸表(に登場する株式保有先一覧)を読む気がする。

 ○故ルイス・リヒテンシュタイン・
  ストラウス
幹事理事長を永年務めた。米国ロスチャイルド銀行ともいうべきクーン・ローブ商会の共同経営者だった人物である。彼は人名録に自ら「ロックフェラー一族の経済顧問」と記載している。ストラウスはまた、ステュードベイカー社、ポラロイド社、NBC(米国三大テレビネットの一つ)、RCA(アメリカ・ラジオ放送)の重役で、商務長官、米国原子力委員会委員長という政府の要職も務めた。更に悪名高い共産主義の隠れ蓑団体、太平洋問題調査会IPRにも永年に渡ってロックフェラー資金を投入し続けた。更にロックフェラーのシンクタンク、プリンストンにある「高等研究所」(初期にアインシュタイン等がいた)の所長も務めた。また、米国ユダヤ人委員会AJCの財政担当として、ユダヤ人の宣伝・煽動誌『コメンタリー』の刊行資金を募った。

 ○ドロシー・ピーボディー・デーヴィソン
スローン・ケタリング・癌センターの有力理事である。彼女は50年の間ニューヨーク社交界きっての淑女であった。F・トラビー・デーヴィソンと結婚したが、彼の父親ヘンリー・ポメロイ・デーヴィソンはロックフェラーの親戚で、J・P・モルガンの片腕として活躍した人物だった。1910年11月、5つの大手銀行の銀行家とネルソン・オールドリッチ上院議員(彼の娘はジョン・D・ロックフェラー2世と結婚)は、連邦準備法の草案を練るために(ジョージア州)ジキル島に渡って秘密の会議を開いたが、ヘンリー・P・デーヴィソンもこの時参加した銀行家の一人であった。ヘンリー・P・デーヴィソンについて米国伝記辞典にはこうある。
「早くからJ・Pモルガンに認められ、とくに1907年の世界恐慌の時には良き相談相手となった。オールドリッチ上院議員、ポール・M・ウォーバーグ、フランク・A・ヴァンダーリップ、A・ピアット・アンドリュー等と共同で『ジキル島報告書』を起草し、この考えが具体化されて連邦準備制度の創設に繋がった」

 (略)

 父親と同じ名前を付けられた彼のもう一人の息子、ヘンリー・P・デーヴィソンは、ジェームズ・スティルマンの娘アン・スティルマンと結婚した。ジェームズ・スティルマンは、その膨大な資金を使ってスタンダード石油を生み出したナショナルシティー銀行の社長を務めた人物である。ヘンリーはその後J・P・モルガン商会の共同経営者になった。
前述したように、兄のF・トラビー・デーヴィソンはドロシー・ピーボディーと結婚した。この家族は米国でもずば抜けた「慈善事業一家」である。「財団による慈善事業」という概念を始めて発明したのはピーボディー家であろう。米国最初の財団「ピーボディー教育基金」は1865年にJ・P・モルガン銀行の設立者の一人でもあったジョージ・ピーボディーによって創設された。この財団が後にロックフェラー財団になる。 

 (略)

 娘のドロシーはスローン・ケタリング・癌センターの理事だけでなく、米国癌協会の全国協議会の役員も永年務めた。彼女は野生動物のハンターとしても著名で、インドやアフリカに出掛けては獲物をライフルで仕留め、数多くの毛皮や角等を戦利品に持ち帰った。彼女の夫F・トラビー・デーヴィソンは1926年から32年まで戦争省空軍長官だったが、米国自然史博物館の館長も務めた。
……ドロシーの息子エンディコット・ピーボディー・デーヴィソンは、J・P・モルガン商会の秘書になり、その後ロンドン支店の総支配人になった。また1979年からはUSトラストの社長を務め、軍需産業のスコヴィル社、トッド造船所、ディスカウント社長の重役でもある。また、エンディコットはメトロポリタン美術館とマークル財団の理事も務めているため、報道機関を通じて多くの寄付金を募る事が出来る。
アイゼンハワー大統領の国務長官ジョン・フォスター・ダレスもポメロイ家を通じてロックフェラー家と親戚関係にあった。

 (略) 

 ○クリフトン・C・ガービン2世
エクソン社の社長で、シティーコープ、
シティバンク(前ナショナルシティー銀行)、
ペプシコ、JCペニー、TRW、エクイタブル生命保険、コーニングガラス、製薬会社ジョンソン&ジョンソンの役員でもある。

 ○ルイス・V・ガースナー2世
巨大製薬会社スクイブの社長で、アメリカンエキスプレス、キャタピラー&メルビル社の取締役である。またハーヴァード大学参事会の理事でもある。

 (略)

 ○ロバート・V・ローザ
ブラウン・ブラザーズ・ハリマン投資銀行の共同経営者で、ローズ奨学金受領者であり、連邦準備制度を永年にわたり裏で操ってきた男である。ポール・ボルカーを教育し、ワシントンの連邦準備制度理事会FRBの議長に指名した。またデーヴィッド・ロックフェラーに協力して、日米欧三極委員会TC(統一世界政府の一翼を担う組織)を発足させ、自ら理事に収まった。

 ○ベノ・C・シュミット
永年、投資銀行J・H・ホイットニーの共同経営者であった。この銀行はシュルンベルジェ社、フリーポート・ミネラル社、CBSの株を多く所有している。シュミットは第二次世界大戦中、戦時生産委員会の総顧問も務めた。また1945年と46年には外国債務返済局を取り仕切って数十億ドル相当の原材料を無料で譲渡してしまった。1971年から80年までは大統領癌諮問委員会のメンバーを務め、現在はゼネラル・モーターズ・癌研究財団、カーネギー国際平和基金、ホイットニー博物館の理事である。
シュミットは「対癌戦争」での優れた業績をたたえられて、1972年に米国癌協会からクリーヴランド賞を授与された(これ等の団体はいつも仲間内で互いに名誉や賞を与え合っている。だから外部から候補者を探す必要がない)。

 (略) 

 ○フランク・サイツ
オルガノ社、オグデン社という2つの化学会社の重役である。1975年以来、重要な政治組織「戦略研究所ISS」の所長を務めてきた。また現在は全国癌諮問委員会NCABの委員とロックフェラー財団の理事で、ベルギー米国教育財団にも加わっている。この教育財団は、ハーバート・フーヴァー❲第31代大統領❳が第一次大戦後に設立したものである。フーヴァーは大戦中、ベルギーで慈善事業を行った(彼は「ベルギー救済委員会」を設立しドイツ軍に戦争を続けさせるために裏で食料を供給し続けた)が、同財団はこの活動によって得た利益を隠すためのものであった。
サイツはまた、ジョン・サイモン・グッゲンハイム財団の理事でもある。この慈善財団は、1985年に1億500万ドルの資産を所有していたが、実際に慈善事業に使ったのは、そのうちわずか750万ドルであった。

 (略) 


 以上が我が国でも有数のメモリアル・スローン・ケタリング・癌センターの幹事会を構成する理事達である。このように各理事は多くの点でロックフェラー財団と直接・間接に繋がっていることが分かる。

⚫メモリアル・スローン・ケタリング・
  癌センター監督会理事名鑑

(※こちらもそうそう足るメンバーですが
 カットさせてもらいます。)


……以上のようにメモリアル・スローン・ケタリング・癌センターの理事達は、ロックフェラー財閥に直接結び付くだけでなく、軍事産業、CIA、化学・製薬会社とも密接に結び付いている。癌センターの推進する癌の治療法が、実際に何十億ドルという利益を生み、同時にセンターの理事達が関連企業の役員を兼務することで、その恩恵を受ける立場にいるということは、単なる偶然ではない。

しかも、一般国民は癌センターを公益団体だと信じているのである!

実際にはメモリアル・スローン・ケタリング・癌センターと米国癌協会は、米国医師会と共にロックフェラー医療独占体制の重要な一翼を担う機関なのである。


⚫米国癌協会の育ての親アルバート・ラスカー

1944年、「米国癌管理協会ASCC」は「米国癌協会ACS」と名称を変更した。この時、米国で最も有名な2人の売薬商人がこの組織に加わった。アルバート・ラスカーとエルマー・ボブストである。

 ドイツのフライブルクに生まれたアルバート・ラスカー❲1880~1952❳は「現代広告業の父」と呼ばれてきた。ラスカーは米国人の頭に自分のメッセージを叩き込むため、覚えやすい宣伝コピーやを何度も繰り返す手法を用いた。歴史に残る成功を成し遂げた売薬商人にはジャーナリスト出身者が多いが、ラスカーも最初の仕事は新聞記者であった。彼は両親に連れられ米国に渡り、テキサス州ガルヴェストンに住んだ。父のモリス・ラスカーはロスチャイルド系銀行業者の代表として、すぐにテキサスの5つの銀行の頭取になった人物である。穀物および綿花販売でも成功し、ガルヴェストンの贅沢な豪邸に住む西テキサスでも有名な資産家であった。その為「パンハンドル(彼の住む地域)のゴッドファーザー」と呼ばれていたが、1916年に息子のアルバートを遺言執行者として残して死んだ。
この頃アルバートは広告業を拡大するために現金が必要だったので、すぐに父親の残した土地を二束三文で売り払った。
……アルバート・ラスカーは16歳の時ガルヴェストン・ニュース紙の記者になったが、その後すぐに、もっと稼ぎのいい「ダラス・モーニング・ニュース」というテキサス州で一番大きい新聞社の記者に転職した。即座にラスカーは、新聞業で本当にカネになるのは報道ではなく、収益の大半をもたらす広告であることに気がついた。そこでシカゴに行き、市内で一番大きい広告代理店ロード&トーマスに自分を雇うよう頼んだ。この時彼は19歳だった。……ラスカーは30歳で代理店を買い取り、その後ビジネス史上、特筆すべき広告キャンペーンを展開し続けることになる。 

 (略)

 ラスカーは米国ユダヤ人委員会AJCや有力なユダヤ名誉○損防止連盟ADLなど主要なユダヤ人組織で常に活躍していた。妹のフローリンは「ユダヤ人女性全国協議会」と「ニューヨーク市民自由委員会」を設立した。もう一人の妹、エタ・ローゼンソンは熱烈なシオニストで「ハダーサ」(イスラエルの医療・教育改善・シオニズム運動・世界平和などを目的とするユダヤ婦人の慈善団体)の会長を務めた。

 第一次世界大戦中、ラスカーは友人のバーナード・バルークの勧めでウッドロー・ウィルソン政権の次官補になった。これが彼が生涯で唯一就いた政権のポストであった。
ラスカーはシカゴのロード&トーマス社を巨大広告会社に成長させたが、シカゴだけでは満足できず事務所をニューヨークに移した。

……ニューヨークに移ると、これから需要が増大する製品の全国販売キャンペーンに乗り出そうと考え、先を見越して一般にあまり認知されていない製品の宣伝に多額の投資をした。
……その後、ラスカーは「広告で私ほど儲けた人間はいない」と自慢した。

 ラスカーは全米で人気を博した多くのラジオ番組の仕掛け人でもあった。ラジオ界で60年間も活躍したボブ・ホープは彼のオーディションを受けたのがきっかけである。『エイモスとアンディー』を全米でもっ人気ある番組にしたのもラスカーだった。
……ラスカーは大リーグ球団の「シカゴ・カブス」を所有し、賭け事にも相当凝っていた。1回のゴルフプレーに4万ドルも賭けた事が噂になったりした。

……ラスカーの販売活動で最も成功したのはサンキスト社のためにオレンジジュースを普及させた事である。しかし米国人が彼の名を一番よく思い出すのは、彼とアメリカン・タバコ社のジョージ・ワシントン・ヒルとの交友関係によるものである。
ラスカーが業界に登場したころは、アメリカン・タバコ社の社長はパーシバル・ヒルであった。パーシバルはフィラデルフィアの有力な銀行家の息子で、元は絨毯の販売で成功した人物であった。しかし、彼はこの事業を売り、その収益でブラックウェル・タバコというタバコ会社を買収し、その後この会社をタバコ王のジェームズ・デュークに売った。しかしデュークは1911年に会社を再編成し、パーシバル・ヒルには社長のポストを、息子のジョージ・ワシントン・ヒルには副社長に、それぞれ就任することを要請した。

 ラスカーは第一次世界大戦中にこの会社との取引関係を持った。
……ラスカーの偉大な功績は、彼の全国キャンペーンのおかげで米国人の女性が公衆の面前で平気でタバコを吸うようになった事である。つまりラスカーは、女性の肺癌患者の生みの親といえる。その当時は、人前でタバコを吸うような大胆な女性はほとんどいなかった。

 ラスカーはハリウッドの手下どもから上手く協力を得て、女優が人前でタバコを吸うシーンが多くの映画の中に入るよう画策した。
特に成功したのは女優のベティー・デーヴィスで、映画の中で見るベティーの姿は、ほとんどいつも深い紫煙の中にあった。彼の作戦のおかげで、女性が人前でタバコを吸うことが当たり前になり、タバコの新しい市場が開拓された。勿論それがラスカーの唯一の目的であった。
約20年後、この女性達の多くは肺気腫や肺癌で死んでいった。

……1939年、ラスカーが「21クラブ」でワイルド・ビル・ドノヴァンと昼食を共にしていた時である。ドノヴァンはその後すぐに戦時中のOSS(戦略事務局)、後のCIAの長官となった人物であるが、彼はラスカーに、夫と離婚して独身に戻った魅力的な女性を紹介した。彼女は美術商で名前をメアリー・ウッダードといった。ウィスコンシン州の銀行家の娘で、最初は衣料品の会社ハリウッド・パターンズ社を経営し、OL向けの安価な服のデザインをしていたが、その後、美術品業界に入った女性である。

 (略) 

 ラスカーの親しい友人は全て著名なユダヤ人であった。バーナード・バルーク、アンナ・ローゼンバーク、デーヴィッド・サーノフ、ニューヨークの政治評論家ベン・ソネンバーグ、クーン・ローブ商会のルイス・ストラウスなどである。けれども彼は自分の広告会社にユダヤ婦人を雇うことはめったに無かった。そのことを咎められるとただ笑みを浮かべてこう言った。「いいですか。私はこの会社に入り込んでこれを乗っ取った。同じことを誰かにされたいと私が思うでしょうか?」

 ラスカーの手下の中にはエマーソン・フット、ウィリアム・ベントン、フェアファクス・コーンといったその後の広告業界で大成功した者達がいた。ユダヤ人のラスカーにとってはその全員が異教徒だったので、好んで
「私の可愛いゴイム達(獣の意味、ユダヤ教徒以外の異教徒に対する蔑称)」と呼び、自分が怒鳴りつけると手下達がどれほど震え上がるかを、笑いながら語った。

 (略)  

 この物語の中で重要なのは、ラスカーと相棒の医薬品販売業者のエルマー・ボブストが、1940年代の始めに衰退していた米国癌協会を乗っ取り、数カ月で全米規模の巨大権力に育て上げたという事実である。ラスカーらは広告宣伝・資金調達・事業運営のあらゆる手法を駆使し、米国癌協会を癌治療という新たな10億ドル市場における最大勢力に仕立て上げた。
そしてこの業績はロックフェラー医療独占体制にとっても大変喜ばしいものであった。

 (略)

 ラスカーは死ぬ前に「アルバート&メアリー・ラスカー財団」を創設していたが、この財団のおかげでメアリー・ラスカーは、米国医学界で最も権力のある女性になった。メアリーはラスカーの死後すぐに、寄付金や財団、政府ロビイスト、その他の組織からなるこの一大帝国を支配した。彼女の権力掌握に協力したのが、永年メアリーと密接な関係を保ってきたロックフェラーの使用人アンナ・ローゼンバークであった。



 以上第3章途中まで




 非常に3章が長いので3回に渡ってしまいました。ここまで読み進めてくると、やはり全て元締めのロックフェラーに繋がっているのがよく分かります。そして上記にあるように、軍事産業、CIA、化学、製薬会社、(ハリウッドは完全に彼等の広告手段)とも密接に結び付いている事と、それぞれの人物に銀行家の家系がいる事も目立っています。
「⚫鉱山王ダグラスがもたらした放射線治療のはじまり」の最初の箇所で、ロックフェラーの財産の源が全てロスチャイルドの資金から流れ込んでいるという事も書かれてありました。