【第2章 悪名高いニセ医者に
           操られた米国医師会AMA】


   (略)

⚫ニセ医者シモンズ「博士」のあやしい経歴

 創立者デーヴィス博士の真摯な理想にもかかわらず、米国医師会はおよそ50年間は消滅寸前の状態が続いた。しかし医師会は、1899年にネブラスカ出身のジョージ・H・シモンズを迎えることで、大きな発展を遂げることになる。シモンズは生涯を通じて(おそらく半分は馬鹿にして)「ドク」(博士)と呼ばれたが、現在では米国史上傑出した「ニセ医者」として記憶されている。シモンズは英国のモートンに生まれ、1870年に米国へ移住してきた。中西部に入植した彼は、初め雑誌記者として働き始めた。おもしろいことに20世紀の米国の医学界を代表する他の2人の人物、モリス・フィッシュベインとアルバート・ラスカー両医学博士も、同じように初めは記者だった。フィッシュベインの場合は生涯、記者の仕事を続けた。

 シモンズはネブラスカ州リンカーンでネブラスカ・ファーマー誌の編集者になった。しかし数年後には、もっと儲けるために他に類を見ないようなインチキ治療業に着手することを決心する。興味深いのは、米国医師会は1868年に既に公式の見解として、インチキ治療を「法的に定められた医学界によって認定されていない薬を処方、販売したり治療法を施すこと」と定義していることである。シモンズはこれを無視した。医師の資格を得るため彼がどこかで学んだことを確認できた者は誰もいなかった。それにもかかわらず、シモンズは自分が「ダブリンのロウタンダ病院の免許所有医師」だと広告に掲載した。おそらくアイルランドのダブリンの病院の事を言っていたのであろう。しかし実際にはダブリンの病院は医師免許を発行したことなど一度もなかったし、そのような権限も与えられてもいなかった。
正式な免許を持った医師として米国にやって来たはずのシモンズが、なぜ初めから医者をせずに数年間も雑誌記者をやっていたのか、などとわざわざ質問する者はいなかった。また彼は広告に「ロンドン最大の病院で1年半」過ごしたとも記載していたが、その病院の収容患者数がどれくらいであるとか、自分が患者だったのか雑役夫だったのか、はたまたその他の職員だったのか、などということについては、一切口を閉ざしていた。

 それから何年も経ってから、シモンズは米国国内で繁盛していた医師免許の大量発行工場、シカゴのラッシュ医科大学から郵便で卒業証書を受け取った。勿論リンカーンで毎日患者を診察しながら、である。彼がこの学位を受け取る以前に、ラッシュ医科大学のキャンパスに一歩でも足を踏み入れたという記録はどこにも無い。
彼の子分にあたるモリス・フィッシュベインもこの学校に通ったが、実際に卒業したかどうかは疑わしい。しかしフィッシュベインはその後、権力の絶頂期にこの大学の「教授」になった。専門は「医学の一般向け広報活動」であった。

 『米国医学史』は事実を詳細に調べて研究し尽くした権威ある書物である。しかし著者のジェフリー・マークスとウイリアム・K・ビーティは、シモンズとフィッシュベインについて一言も触れていない。米国医学史上、最も悪名高いこの2人の医者について記述していないということは、一見重大なミスのように思える。しかし実際には、著者はこの2人が医学史上最も有名な無資格のニセ医者である事を知っていたので、賢明にも記述から除くことにしたのである。

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 リンカーンで開業していた時のシモンズ「博士」の広告には、「女性患者のごく一部は当方住居に入院可能」と書かれているが、これは人工妊娠中絶手術をしていることを示す当時の常套句である。彼はこれ以前に「リンカーン診療所」の一部門として美容マッサージの店も開いていた。しかしこの診療所の職員は明らかに彼一人であった。
シモンズは広告では自ら「ホメオパシー医師」と名乗っていたが、この後すぐに米国医師会と結託して全米のホメオパシー治療家を一掃する活動に乗り出すことになる。彼は「女性の内科・外科のすべての病気を治療します」と宣伝していた。

 出世欲の旺盛なシモンズは、米国医師会AMAの存在を知ってネブラスカに医師会のネブラスカ州支部を設立した。組織の設立者としての彼の才能がシカゴ本部の目に止まり、米国医師会の機関紙の編集長になるように声がかかった。このようにシモンズ「博士」が米国医師会に加わったのは、最初医者としてではなく「ジャーナリスト」としてであった。彼が入った時の米国医師会には全国規模の政策を推し進める強力な指導者が存在せず、あたかも「漂流」状態にあった。まさに彼の能力と指導力を必要とする状況にあったのである。



⚫米国医師会はなぜニセ医者に牛耳られたか

 米国医師会に入ったシモンズは、すぐに、自ら医師会の秘書官兼事務局長の地位につき、この団体を今日のような独裁的で自己権力の拡大を目的とする体質のものに作り変えた。米国医師会に集まったカネは全てシモンズの手に渡り、彼はカネの使途について人任せにせず、自ら事細かに指図した。
 
 シモンズはその後すぐに、補佐役としての才能と意欲を持った男を見出した。ケンタッキー州保険衛生局長を務めたことがあるこの男は、シモンズにとっては打ってつけのように見えた。何故なら彼は衛生局長時代に、勘定書に62000ドルの不足があることを監査官に発見され逮捕された経歴をもっていたからである。
州政府の高官だったので、どうにかケンタッキー州知事から正式な許しを得たが、同時にどこか他所へ行った方が良い、という勧告を受けた
彼はすぐに汽車でシカゴに行き、そこでシモンズに会った。自分の州政府の信任上を見せたところ、シモンズは圧倒されてしまった。けれどもこの男、E・E・ハイド博士は、1912年に白血病で亡くなってしまった。

 ハイド博士の死亡は、舞台のもう一方の袖に控えていたジャーナリストのモリス・フィッシュベインにとっては思いがけない幸運となった。フィッシュベインは確かにラッシュ医科大学で勉学を終えていたが、学位はまだ取得していなかった。
いずれにせよ彼は医者にはなりたくなかった。
インターンとしてデュランド病院に2〜3ヶ月間ただ漫然と勤務したが、当時の規定であった公認の病院での2年間の研修を受けることに気が乗らなかった。実はサーカスの曲芸師になることをまじめに考えていたのである。その為、歌劇団でエキストラのアルバイトもしていた。
けれども、米国医師会の職員に空きができる可能性を知って、ハイド博士の病気が末期の頃、アルバイトで機関紙の記事を書き始めた。
シモンズの方も、フィッシュベインが自分の意にかなう男であることを見出した。そこでハイド博士が死んだ時、シモンズは直ちにこの若者に月に100ドルという1913年当時としてはかなり高額な初任給を支払った。
フィッシュベインは米国医師会という安住の地を得た。彼は1949年に文字通り○になるまで、この組織を離れなかった。

 彼の出現で、米国医師会AMAは全米で最も図々しい2人の「ニセ医者」の掌中に握られ、強力な支配を受けることになった。
2人のニセ医者とは勿論、世間の明るみに出せるような医学の資格を何も持っていないにもかかわらず、何十年もの間堂々と「医者」を開業していたシモンズと、1938年に裁判所で、自分は一生の間一日も医療行為を行ったことが無い、と認めたモリス・フィッシュベインである。

 よく知られているように、シモンズ「博士」は生涯において金儲け以外の動機で行動したことがなかった男なので、米国医師会の持ちうる巨大な権力は、必ず金儲けという金の鉱脈に自分を導いてくれることを即座に悟った。
彼はすぐに、米国医師会が業界に好意と恩恵を与える見返りとして、一定の報酬を要求し始めた。

 まず第一に行ったことは、新製品に対する「認定章」をSeal of Approval の発行事業である。しかし当時の米国医師会は、実際には(製品をテストするための)実験室や試験設備、研究者をもっていなかったため、「認定章」は「金力調査」によって与えられた。即ち新製品の申請者が医師会に金をいくら支払うことができるか、またその金額がシモンズにとってどの程度の価値があるのか、を調査するというやっかいな検査方法である。

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⚫組織的脅迫機関だった米国医師会

 ニューヨークのマニュエル・ジョーゼフスン博士はシモンズーフィッシュベイン時代の米国医師会を痛烈に批判して、こう書いている。
「シモンズとその一味が医学書出版と広告を独占するために使った方法は、露骨かつ非合法的なものであった。……米国医師会は自分達の機関誌以外の媒体に広告を出した製薬会社に対して、薬の『認定』を取り消すぞと、あからさまに脅迫した。」
ジョーゼフスン博士はシモンズのこういうを「商取引の制限と搾取による謀略」であると述べている。これもまた真実であるが、彼は更に「医療分野において連邦政府が行ったほとんど全ての施策は、すべて米国医師会の指図に従ったものであった」と告白している。
これについては筆者も、後に多くの実例から立証したが、製薬会社が行う非常に悪質な組織的脅迫を、実際に手に下して実行しているのが、政府機関なのである。

 シモンズの権力支配があまりにも甚だしかったので、その後米国医師会の会長に就任したネイサン・B・ヴァン・エテンは、ニューヨーク州裁判所で宣誓供述書を提出させられ、米国医師会の会長として金銭を受け取ったり契約を結んだりするいかなる権限も持たないと誓わされた。
 シモンズが行ったような契約は全て、シカゴにある医師会本部が担当していた。医師会は、「政府による医療への干渉から医者の利益を守ることに活動の焦点をしぼって」いた。
これは一挙両得の方法であった。米国医師会は、自分達の医療独占支配に対する政府のどのような監督にも強固に反対すると同時に、一方で様々な政府機関を利用して、独占を脅かす者は誰でも逮捕・起訴して牢屋にぶち込んだからである。

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⚫後継者フィッシュベインはさらに金まみれ

 一方、依然として幸運の星の下にいたモリス・フィッシュベインは、シモンズの後を引き継いで米国医師会の最高権力者となった。
米国医師会はこの2人によって半世紀以上に渡って支配された。彼等はこの組織を巧みに利用してカネを儲け、政治権力を振るい、医師、病院、製薬会社、政府関係機関への支配力を保ち続けたのである。

 医師会を離れたシモンズはフロリダのハリウッドに移り住み、1937年にそこで没した。

……モリス・フィッシュベインは、シモンズから権力の座だけでなく有能な部下のオーリン・ウェスト博士❲1874_1952❳も受け継いだ。ウェストは1910年から18年までロックフェラー衛生委員会のテネシー州局長を務めた男であった。
つまり彼は、米国医師会本部におけるロックフェラー人脈の代表者として必要不可欠な信任状を持っていたわけである。

 ジョーゼフスン博士は後に、フィッシュベインを「医学界のヒトラー」に、ウェストをヒトラーに次ぐナチスの指導者「ゲーリング」になぞらえている。

 米国医師会には政府の役人を「利用する」力があるということに、フィッシュベインは気づいていた。製薬化学評議会の最初のメンバー15人のうち3人は連邦政府の役人であった。

 シモンズ亡き後、権力はフィッシュベインの思いのままになった。彼はその日以来、誰かが米国医師会について述べたら必ず、その人が自分に賄賂という貢物を持って来るかを確かめた。彼は医師会での地位を利用して多くの個人的な事業を手掛けた。出版、講演、新聞の特集記事の執筆など。おかげでフィッシュベインは、医師会から受け取る給料は年間24000ドルというつつましいものだったにもかかわらず、「西側世界第一の遊び人」になった。
彼が毎週のようにニューヨークに通い、ナイトクラブに現れたり、芝居の初日を見に行ったりしている間、子供達にはフランス人の家庭教師が付けられていた。手数料、リベート、報奨金、その他のカネが彼の金庫に洪水のように流れ込んだ。

 フィッシュベインが米国医師会を支配した25年の間、彼は常に自分を宣伝し、カネを儲け続けた。生まれてから一度も患者を診たことが無いという事実にもかかわらず、彼は新聞の特集記事配給会社を説き伏せて、200紙以上の新聞に毎日掲載される「医療」コラムの執筆担当者になった。
1934年3月23日のエディター&パブリッシャー誌は全面広告でフィッシュベインのコラムの新連載を祝って、こう書いている。

 「医学の権威フィッシュベイン博士の名は、純銀製品に刻された『スターリング・シルバー』の刻印と同様、本物の証明である」

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 ⚫米国医師会の食品委員会と
  製薬化学評議会の強力な権限

 フィッシュベインはまた、米国医師会にある様々な委員会の委員の人選にも絶対的な発言力をもっていたため、誰も彼を攻撃する位置に立てなかった。とりわけ製薬化学評議会と食品委員会The Committee on Food については他人の干渉を許さなかった。これらの委員会は、製造メーカーや広告会社に対する強い権限を持っていたからである。

 製薬化学評議会は、食品医薬品法が議会を通過したのと同じ1905年に創設された。
2つの団体は常に密接な連携を保ちながら活動していた。医師会の広告収入は毎年増大していたが、フィッシュベインは米国医師会が一切利益を上げていないと断固として言い張った。
1926年のレビュー・オブ・レビュー誌上に、彼の次のような言葉が引用されている。

「米国医師会は規約にも明記しているよう『利益を追及しない団体』どころか、逆に一般国民に経済や生命の面で多大な利益を与えている」

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「純正食品、公正な広告 米国医師会食品委員会の認定章Seal of Acceptance のある商品はすべて信頼できる品質で、広告に偽りがないことを保証します。買って来た食料品にこの認定章がついているかどうかご覧下さい。シー・ブランド・ツナ社のホワイト・スター・ツナとチキンにはこの認定章があります」

 フィッシュベインがこの広告を載せていた頃、政府食品医薬品FDAはこのブランドのツナ官の船荷を何度も回収処分していた。何故ならこのツナ缶には「腐敗した肉全体あるいはその一部が含まれていた」からである。米国医師会の認定章などこの程度のものであった。

 米国医師会の食品委員会は、常に摘発や損害賠償請求の訴えを起こされる危険にさらされていた。認定章を発行しながら、実際には商品を検査するための試験設備をもっていなかったからである。


⚫目にあまる腐敗、良識派の反撃、
   それに対する報復

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 ……製薬会社は適当な保証のもとに新薬を発売すれば、1億ドルの利益を上げることが出来たが、保証のうち最も必要不可欠なのは、勿論米国医師会の認定章であった。そのため大規模な収賄罪、陰謀、不正行為が蔓延し、無視できないほどになっていた。
このことを大いに問題にしたのが、ニューヨークのジョーゼフスン博士であった。莫大な財産の相続人である博士は、市内の一等地にある何百万ドルもの豪邸に住んでいたが、そこはネルソン・ロックフェラーの住む高級住宅地アッパー・イースト・サイドのすぐ近くであった。

博士はフィッシュベインの蓄財活動への軽蔑心を隠すことが出来ず、1932年1月2日に米国医師会支部のニューヨーク市医師会を正式に脱会してしまった。
………1939年、ジョーゼフスン博士はサイエンスマガジン誌に、彼の革新的な研究成果を報告する重要な論文を寄稿した。だが、「重症筋無力症のビタミンE療法」と題するこの論文は、掲載を拒否された。後になってジョーゼフスン博士は、米国医師会が25年以上に渡ってビタミンE療法の有効性を故意に隠し続けた、と指摘している。

 これは医師会が人の命を救う情報を、一般大衆には知らせないという何百もの実例のほんの一つにすぎない。今ではビタミンE療法の有効は、多くの医師に認められている。
……彼は何年も医師会のニューヨーク支部に自分の発見した治療法の審査を要請したが、いつも拒否されたという。

 著名な科学者・教育者であるフランク・G・リドストン博士は『なぜ米国医師会は堕落するか』という小冊子を発行し、その中でこう書いている。
「米国医師会に巣くう寡頭勢力がもっとも誇らしげに吹聴してきた業績は、専売薬品やインチキ薬品製造業者、ニセ薬品に対する遅まきながらの宣戦布告であった。これらの医薬品が医師会雑誌の広告を飾り、その広告収入でこの寡頭勢力がボロ儲けしていることを考えると、その偉そうな態度に私は吐き気を催す。米国医師会が何十年にもわたり、最善を尽くして業界の宣伝にこれ努め、罪のない大衆の毒殺専門家やニセ医薬品製造業者どもを肥え太らせた後『恩を仇で返した』ことは、この組織の編執狂的な体質にふさわしいものであった。現在、食品会社や医薬品会社を支配している寡頭勢力の独占的な権力は、非常に危険である。人間の本性からいって、このような権力は遅かれ早かれ悪用されるからだ。」

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⚫続々と認定された危険な医薬品

 フィッシュベインは医師会の正式な代表者であった期間中に、危険で恐ろしい医薬品を数多く認定した。人体に有害であるとの試験結果が出ていたにもかかわらず、悪名高いダイエット薬のジニトロフェーノール(痩せ薬として用いられた染料)の認定を急がせた。
また、ロックフェラー医学研究所の特許をもとにメルク社が製造したトリパルサミドは、「ヒ素」を含む危険な薬であった。梅毒の症状を抑えるために使用されたが、その後開発者のポール・エリック自身が、この薬のせいで視神経が萎縮して失明する恐れがあることを発見してこの薬を放棄した。しかしエリックが警告しても、米国医師会やメルク社、ロックフェラー医学研究所は受入れず、この薬を販売し続けた。

……フィッシュベインが犯した過ちのうち、我々を最も危険にさらしたのは、1941ネルソンにスルファチアゾール(肺炎などに使われた抗菌薬)を認定した事である。1941年1月25日フィッシュベインは、ウィンスロップ・ドラッグ社製のスルファチアゾールが「米国医師会の製薬化学評議会により非薬局方の新薬として会の公式リストへの登録を認められた」と発表した。 
ウィンスロップ社は国際的医薬品カルテル、IGファンベル社の子会社であった。
スルファチアゾールを含む新薬は、FDA(食品医薬品)のJ・J・ダレット博士によっても認可されたが、彼を指名してこの重要なポストに付けたのは、他ならぬロックフェラーだった。

 1940年の12月までに、一錠に5グレーン❲約0.324g❳のスルファチアゾールを含む鎮静催眠剤ルミナールが40万錠も売られた。しかし、安全な量は一錠当たり1グレーンまでだった。ルミナールを飲んだ人は二度と目を覚ますことは無かった。

 米国医師会は、1937年、ジエチレングリコールを溶媒したスルファニルアミドの極めて毒性の強い調合薬を認定した。しかし心臓病に「効果がある」と宣伝されたこの調合薬は、患者の白血球の減少を引き起こし、多数の死者を出した。

フィッシュベインが去ってからかなり経つ現在でも、米国医師会は潜在的な危険をもつ医薬品の販売をし続けている。

……フィッシュベインの在任中で最も非難されるべき出来事は、永年ヨーロッパで患者の命を救ってきたスルファニルアミドの認定を拒否した事である。その理由は、この薬の製造元のメーカーがフィッシュベインの満足するような取り計らいをしなかったためであるが、おかげでおびただしい数の米国人が敗血症で死んでいった。しかし、ルーズベルト大統領の家族の一人が突然この病気に罹り、主治医に頼んでスルファニルアミドを特別に入手させるにおよんで、フィッシュベインもようやく折れ、その後すぐに米国医師会理事会はこの薬を「認定」せざるを得なくなった。



⚫危険な薬漬けの「すばらしき新世界」
  (部分的に略)
 
 ー莫大な医療費

……1955年から75年までの物価指数上昇率は74%であったが、医療費の上昇率は300%であった。

 ーX線撮影

……もし不必要なX線撮影を3分の1でも減らせば、年間に1000人の患者の命が救われると報告している。しかし、この問題に関して責任を負うべき米国癌協会ACSA  American Cancer Society は、この事実を無視し続けている。
現在の年間死者数から予測すると、X線が遺伝子に与える影響のために、将来は米国全体で年間3万人の死者が出るだろうといわれている。


 ー睡眠薬・精神安定剤

 1976年に米国で医師が処方した睡眠薬は10億錠にのぼり、約2700万件の処方のうちおよそ25000人が副作用のために救急治療室に運ばれ、更に1500人が救急治療室で精神安定剤のために死亡した。被害者の90%は女性であった。

 (略)

 ー3000種類以上もの効かない薬
 
 1980年9月に食品医薬品局FDAは、3000種以上の医薬品を効果が証明されていないとして販売を禁止すると発表した。ということは、その前年1年間だけで「証明されていない」薬に10億ドル以上もの金を支払ったことになる。
これらの薬の多くは米国医師会に「認定」されたものであった。



⚫医療情報統制協議会CCHI による
  恐るべき組織犯罪行為

 (略)

……医療情報統制協議会は表面上は単なる助言団体に過ぎなかったが、医師会に所属しない民間治療家に対する総力戦を米国全土で間もなく開始した。攻撃のターゲットは通常、「非営利」の米国医師会が選び出し、米国癌協会ACSや関節炎財団といった慈善財団がこれに協力した。

 この2つの団体は、民間治療家が患者の命を救っているのに、この団体はどちらも患者を殺している、という非難をいつも受けていることが面白くなかったのである。 
これらの組織犯罪集団は、連邦委員会や郵政省、FDA、公衆衛生局と連携することで、連邦政府の警察権力をフルに活用した。

 これらの政府機関に対して慈善財団は、全国の何も知らない何百人もの治療家に警察権力を行使するよう強く要求した。
この事件は政府機関が今までに関与した、最も大規模で計画的かつ残忍な謀略であった。その結果、多くの市民が「もっとビタミンを摂取しましょう」などと勧める無害な健康法を書いた小冊子を販売したり、時には無料配布しただけで逮捕されたのである!

販売業者は郵政省や司法省、FDAから販売禁止命令を受けた。また主に薬草を原料にした様々な膏薬、民間治療薬を売っていた業者は、高い罰金を科せられたり刑務所に入れられたりした。彼等のほとんどは貧しい年寄りであったが、手持ちの在庫品は全て「危険な薬」として没収あるいは処分された。
けれどもこれらの薬のうち、人体に障害を与えたり、まして死に至らしめたと報告されたものなど何一つ無かったのである。

 製薬会社はこのような戦略の一方で、腎障害や肝障害、致死のような様々な副作用をもつ自分達の医薬品を販売し続けていた。しかしこれらの製薬会社の方は、民間治療家と同じ理由で医薬品の販売を禁止されたことは一度もなかった。
その後、幾つかの危険な医薬品が米国で、販売禁止になると、多くの製薬会社はその薬を南米やアジアなど海外に輸出した。そして今日でも販売されている。

 ……医師会と製薬会社がとくに集中的に攻撃したのは、果物から抽出された抗癌物質「レアトリル」laetrileの製造販売業者であった。
癌で儲けている製薬会社は、抗癌剤から莫大な利益を得ていた為、これと競合するいかなる商品に対しても極度に神経を尖らせ、ライバルを脅迫するために「手入れ」をするよう政府機関に依頼した。

政府職員による襲撃は、たいてい夜中に行われた。連邦捜査官は武装した特別狙撃隊SWATと共に店に押し入って、年老いた婦人を逮捕し、薬草茶の在庫を押収した。こういった主婦や定年退職者の多くは、わずかばかりのビタミン剤や健康食品を隣近所に儲け無しで販売していた。
彼等には、製薬トラストの単なる操り人形にすぎない政府機関の一群を相手に、裁判で争うだけの資金もなかった。たいていの場合、被害者は、持家やコツコツ貯めてきた貯金など差し押え可能な全財産を失ったが、このような結果になったのは、彼等が医療独占体制を脅かしたためである。

 この一件は実は、ある大富豪が自分の儲けになる事業を守るため最も露骨に警察権力を利用した事件であった。
被害者のほとんどは、自分達を抹殺したのがロックフェラー独占体制であることに今日でも気づいていない。




 以上第2章途中まで
 次回に続けます。