しばらくユダヤ教徒のあの有名なタルムードについての記述を続けてみたいと思います。

※※⚪太田龍氏の本より少し抜粋しましたが、
太田氏が2007年に「地球の支配者は爬虫類人的異星人である。」とした本を出しており、デービッド・アイク派の思想の持主である事が分かったので削除しました。今後も、間違いがあった場合は訂正させて頂きます。※※



 タルムードについて昭和16年(1941年)に久保田栄吉訳として大変有名となった著作「歴史的文献探索:デ・グラッペ著 世界撹乱の律法タルムード」を幾つか紹介します。


⚪「タルムード第9章❲18/22❳史上最低最悪の宗教、オウ◇の方がマシ?那智酢より酷い?」
 khazar穴さん配信
(2017/5/19配信)この方は朗読調で何章か紹介されています。

 その18(§9)タルムード

 異教徒は、獣であるからその物品を奪い、その家から追い出すことは許されるし、その物品や家は本来神の子であるユダヤ人の所有となるべきもので、それが結局自分の元に戻ってきただけのことだ。異教徒は獣にして「隣人」には該当しないから「隣人を害するなかれ」の規定には違反していない。

 
 第九章 ユダヤ道徳教の鉄則

(※著者の言葉)
 「タルムード」は、ユダヤ人にあらざる全ての人権をゴイ(豚)と呼んで蔑んでいる。しかし、ユダヤ人はゴイに対する非友誼的に非難される時、この名称は単に異教徒を意味するもので、決してキリスト教徒及びイスラム教徒のみを指すものではないと釈明するが、しかしこの釈明は首肯できない。
なぜかといえば、タルムード自体がこれを反駁するに努めているばかりでなく、ジッテン章及びアボ・ダザラ章においても。『割礼を受けざる者は異邦人である。異邦人と異教徒とは同一である。』と明記されていることに徹しても、全ての非ユダヤ人に関するものであることは明白である。なお、ユダヤ人が如何にこのゴイを憎悪の標的としているか、またタルムードは、ユダヤ人が神の本体から生まれたものであるのに対し、ゴイは悪魔から出たものであるということを鉄則のごとくに確認し、さいぜんとしてこれを強調している点は以下の各義によって立証される。

 『ユダヤ人は天使よりも神から快感を以て激愛されている。故にゴイがユダヤ人を殴った時は、神の尊厳を冒涜したのと同様、その行為は死罪に相当する』(サンへドリン章)

 これについてタルムードは、このようなことは当然であるとの理由として、
「全てのことと物の間に差別があること自体は争われない。人間が飼育する動植物を見よ。人間がもし彼等に給飼を忘れたら一時も生存しないであろう。人間が他の動物に超越しているが如く、ユダヤ人は地球上の全ての人種に超越している。故に、もしユダヤ人が生存しなかったならば、地球上に恩寵なるものがないであろう。太陽の光もまた雨風もないであろう。ゴイが生存することが出来ないのは言うまでもない。」(ジエンバモット・バシャイ章)

 ユダヤの賢哲らは、非ユダヤ人を純然たる獣類の天性を有する存在と断言しているのみならず、有名なるナクマンラシ、アブラワネル、ヤルクト、メナヘムらの各教師(ラビ)も、被ユダヤ人を獣類として扱っている。すなわち

『汝らユダヤ人は人間である。しかれども世界何れの国を問わず存在するユダヤ人以外の民族は、人間ではなく獣類である。』

『ユダヤ人は永遠の生命を得る資格があるが、非ユダヤ人は豚の如きものである。』

『全てのユダヤ人よ。ユダヤ人は神の撰び給うた人間であるが、非ユダヤ人は獣である。何となれば、彼等の霊魂は悪魔から出たものであり、ユダヤ人の霊魂は神の精霊から出たものであるからである。』

『非ユダヤ人は犬、驢馬にも劣れる獣である。神が彼等に人間の顔面を与えたのは、ユダヤ人が彼等を奴隷として使役するに不愉快の念を感じせしめるためである。』

『独りユダヤ人のみが人という名称を有する資格がある。悪魔から出たゴイはただ豚と称される名称を有するにすぎない。』

 (略)
『…我々の額から崇高なる精神力が光を放っているが、非ユダヤ人は単に自然本能的動物的智力を有するにすぎないではないか。
勿論彼等にも物は見えるが、遠大なる先見の力を欠いており、従って何物をも(物質的事物は格別だが)独創的に発明する能力がない。このことからして観取るのは、我々ユダヤ人による全世界の支配と統治とを大自然自身が予定したということである。』(ユダヤ議定書15章13項)

(略)

『……モーゼの愛憐についての規則は、ただユダヤ人に対する公平なる態度またはユダヤ人を援助する義務と解する時においてのみ、その効力を有するのだと。……ゴイに対する…彼等の生命及び財産に対してはユダヤ人は、彼等が犬か驢馬の形を有していた場合以上の義務は負わない。のみならず、神の怒りは驢馬の上に臨むのであると。』(アボタ・ザラ、ザフ章)

『如何なる寛容をも彼等になすなかれ。』
(ジエバモット)

『悪人のゴイに対して慈悲を注ぐことは後世なる人のなすべからざることである。』

『ゴイが悪しき者ではない者となったとか、あるいは得行者とも見え得ると言ってはならぬ。誓え、ゴイが善事を成したとしても、また得行者として行動しても、施しを行ったとしても、これはゴイの過失とみなして一層彼等を憎まねばならぬ。彼等は単なる虚栄心によってこれを行っているからである。』

『ゴイと平和を保ち、その意に適する者となり、それによって相互の不快なる感情を避けるためにゴイに向かって低頭せよ。』
(パラショット章)

『ゴイを巧みに欺くためには、ユダヤ人はゴイの病人を見舞ったり、その死人を葬ったり、また、貧困者に善事を行ったりすることも良いが、これらは全て安静を得るため、また罪人のゴイ等が我々ユダヤ人に対して悪事を行わないためになさねばならぬ。』

『……然るにユダヤ人のみが人間であるとタルムードが説明している。それ故に非ユダヤ人は合法的に財産を所有することが出来ない。それはあたかも野獣がその棲んでいるところの林に対して、法律の定めている権利を所有していないと同様である。野獣を殺してその林を占領することは、他人から咎められる心配がないようにゴイを殺傷し、あるいは家屋から追放してその財産を奪取しても一向に差し支えない。ゴイの財産は捨ててあるものに等しいからである。その所有者は本来ユダヤ人であるから、ユダヤ人が現にこれを領得したとしても何ら問題はない。』(ゼフェル・ハイカリン)

⚪「タルムード(いわばカンダタか、そうでないか)❲1/22❳諸論」より

……[諸論]

歴史によって惹起せられた全ての人種問題や宗教問題の中、ユダヤ人問題ほど、恒久的で一般的な、そして解決至難なる問題は未だかつて無かった。我らが如き過去に遡ってみても、ユダヤ人が他の民族に散住し始めて以来その居住先の国民との間に、絶えず悲惨極まる流血の闘争が続けられた。彼等のこの散住は、ローマ帝国の軍隊が、彼等をしてその祖国を捨てて世界の各所に離散させた、所謂「散住の時代」と呼ばれる時代より遥かに古いのである。現代においてこのユダヤ人とキリスト教徒及びキリスト教徒との間の闘争が、外観上幾分その激化性を緩和されし如くに見える。しかしそれは、結局ユダヤ人が過去において、公然はばかることなく赤裸々にむき出しにしていた邪悪の念を今日巧みにカムフラージュしているからだ。故に各国民の治安、物質的安定、宗教の自由若しくは社会機構の堅実性を撹乱しようとする脅威の陰に、
……毒蛇がトグロを巻いているが如き、ユダヤ人が潜在しているのを、見出すのである。実際ユダヤ人は社会的若しくは個人的生活の根本破壊を惹起して動乱の港と化すべく、これに適する財政制度を作り上げて、各民族の経済機構を変革せしめた。そして全世界は権を握るべく、且つキリスト教に対する宿怨を晴らそうとして各国に紛争を誘致せしめた。
彼等はこれらの目的を達成するために、自国民中より煽動者となる理論家を輩出し、これによって世界の至るところに共産主義の思潮を伝播して国家社会という、(他の国民の)建物に火を放った。これら煽動者や火付け人足の名を挙げれば、ドイツにおけるカール・マルクス、ラッセリ、ジンケル、オーストリアにおけるネイマエル、アドレル、ハルトマエル、デンマークにおけるジエマス・コーエン、ルーマニアにおけるドブルジャンヌ、へレア、北米におけるコン、サムエル・ゴンベルス、リオン等の如きである。
フランスも12人のユダヤ人によりて寄附されていた78万フランを基金として連合社会党の機関紙「ルマニテ」を発行している。更にまた、全世界における有力な新聞雑誌及び報道機関は、ほとんどユダヤ人の経営であり、その編集長の7割はユダヤ人である。また、全世界における文字及び、芸術、美術の各方面に渡り美風、習慣、公聴の頽廃を誘導する全計画の舞台裏にも必ずユダヤ人の魔手が動いているのである。

 なお、世界の何れを問わずユダヤ人の存在する国家には敏腕なるスパイを配達している。そして過去幾世紀に渡って組織的に行われつつある、大規模な堕落と破壊の工作は今日に至るまで未だ解決し得らざる疑問として我らの前に横たわっている。

 現在における事実も、また過去における歴史も我らの憧憬するところの理想に全くほど遠いのがユダヤ人である。しかもそれは、憎悪の他に偉大なるものを理解せず、掠奪の他に勇気を知らず、彼等の周囲に横溢する汚濁の他には、満足を感じ得ざる人々である。

ところが兎にも角にも、神の摂理として自分達が選抜されたという神の民を作り出す為に、初代ユダヤ人の直系的子孫である彼等が、正しい救世主を十字架にかけて釘付けにしたという経緯がある。しかもそれでも彼等が現在も奉ずるそのメシアの宗教は、世界の全ての民族中、ただ独り「(救世主を降ろされる神の)約束」を与えられたるその遠き昔の祖先の姿を、そのまま将来の希望とする宗教に他ならない。

  【モーゼの十戒】

1. 唯一の神たるヤハウェの他は他の神を
  崇拝すべからず。

2. 聖日を記憶せよ。

3. 6日間働け。

4. 7日目の聖日は休み。神は6日を通して
  世界の万物を造り、7日目に休み給えり。

5. 殺すなかれ。

6. 盗むなかれ。

7. 虚言をするなかれ。

8. 汝の父と母を尊敬せよ。

9. 他の物を欲するなかれ。

10. 姦淫するなかれ。


 然るに、その子供であるユダヤは、今日この十戒が我らの指導の原理にもなる一方で、どうして他方で、ユダヤ人の処世を教え彼が金科玉条として遵守する、タルムードと呼ばれる憎悪と残虐と掠奪との律法(経典)を保つことが出来たのだろう。正にこれこそが、先ず是非ともせんめいせねばならぬ問題である。

それは、最も正確なる資料によってタルムードとその教義とを、受け容れることによって生ずる結果との研究に着手するよりもである。
すなわち、我らはイスラエル民の堕落が如何にして生じたか、またこの堕落がユダヤ人の特性に如何なる地盤を創り出したか。そして、如何なる政治的原動力がユダヤ人をしてその使命に対する反逆を敢えてせしめ、その極み、すなわち先ず尊く正しい救世主を殺害せしめ、爾後キリストの教え(考え方)に対する宿命的な永久闘争を継続するよう至らせたか、以上を明らかにせねばならぬ。 
かくして始めて、我らは2000年の久しきに渡って転廻しつつある、世界的政治運動の中心をなす難解の謎を解く鍵を見出し得るのである。



 次も同じ「歴史的文献探索:デ・グラッペ著 世界撹乱の律法 タルムード」よりの抜粋です。

⚪れんだいこのショートメッセージさんより (2012/4/06)
www.marino.ne.jp./〜rendaico/judea/yudayakyoco/tarumoodoco/…


 第二章 バビロン幽囚とパリサイ派 ⑴

 ユダヤ国民の歴史によると、彼等がその信仰する宗教に背反すると、その都度必ず訪れるものは他国から受ける侵略であった。

そしてこの敗戦によって国民に与えられる屈辱と勝戦国への奴隷化は彼等にとって忍びがたき過酷なものであった。これによって翻然として覚醒し、再び真の神への奉仕に復帰することになったのである。

 今度(紀元前586年)の敗戦は、先にモアブ人、アンモニ真、シリヤ人らが聖地の高所に陣営を設けて諸所を占領した時に比較すると遥かに大なる国難であった。
今やユダヤ人は哀別離苦の涙をのんで祖国と袂を分かれねばならなかった。征服者に引率されて遠き異教に移住することを余儀なくされたのである。
俘虜として輸送されるユダヤ人に加えられる残虐は実に言語に絶したものであったとバイブルに記述されてある。
元来ユダヤ国に於いてモーゼの宗教が保証されていたから、バビロン幽囚の時代に於いてもユダヤ民はこの宗教によって自らの精神力の源泉を汲むことが出来たが、アッシリヤの平野に移住せしめられたイスラエル民は、疾くから既に偶像崇拝に傾いていたので、かかる精神的源泉を欠いていた。この分離した同胞なるイスラエル民が、自分の人種的特有性を喪失したのに反し、ユダヤ民は、彼等の間に現れた預言者らを中心として一層密接に強固に一致団結したのである。この時代の苦難こそ、ユダヤ国民の信仰をいよいよ錬成して彼等を祖先の宗教に復帰せしめられたのである。
一般民衆の間におけるこの純正信教の復興と平行してバビロン俘囚は遺憾ながら、他の比較的幸福ならざる結果を生んだ。特にユダヤ民中の最も教育ある人々は、その宗教的観念と征服者らの信仰との接近の為に種々の誘惑を受けた。
一体バビロン人は、アッシリヤ人の如く專ら好戦的な、他国民を奴隷化せしめることを主眼とするような国民ではなかった。彼等の性格はあまり温和ではなかったが、しかしその宿命的競争者たるアッシリヤ人ほど残忍ではなかった。彼等が、古代の風習に従って、制服せしめられた国民の残余を自国の領土に移住せしめた時にでも、彼等はアッシリヤ人の如くこれを奴隷にしなかった。ただ自国民の間に、いわば定着せしめたのである。
例えば、兵卒ならば征服者前と同様に武器を持たしめ、農夫や職士ならば征服者の農耕階級に加わらしめ、祭司ならば賢人、古占星術者、預言者らの仲間にならしめた。

バビロンには、昔から哲学や史学を始めとし、天文学や神霊交通術に至るまで、当時に於いて研究し得たあらゆる知識が極度の発達を遂げていた。これら当代における学問の栄光を遠く世界の各地に普及せしめていた学習らの間に、ユダヤの祭司レビらは交ったのである。

これが即ちバビロンに移されたユダヤ人達の運命であった。こうしてネブカドネザル王は、第一回エルサレム陥落の時以来、ユダヤ国家の貴族の家庭から集めた小姓をその側近に侍らせたのである。後世の預言者ダニエルの如きはハルデヤの神官長となった。

❲傍言圭❳

オッペルト著 『ハルデヤ及アッシリヤ帝国史』レイノルマン著『最始の文明』
マスベロ著『近東諸国民の古代史』


  バビロン幽囚とパリサイ派 ⑵

 移住せしめたユダヤ人が、ハルデヤ人に接近して雑居していたにも関わらず、特有なるユダヤ人の国民性は以上既に述べた如く全く同化滅却せられなかった。却ってかかる雑居は、被征服者の反感嫉視を煽って、如何にしても緩和することはできなかった。
殊にユダヤ人は従来甚だしく前者を憎んでいたからである。魅力と詩情に満ちたる美妙なる詩(聖書)篇第137篇は、「我らバビロンの河のほとりに佇みて、シオンを思い出でて涙ながしぬ」、「バビロンの女よ、汝らの嬰児(みどりご)をとりて岩の上に投げうつものは幸福なるべし」との言葉をもって結んでいる。

しかし、この雑居によって、バビロニヤの神官とユダヤのレビとは同一の生活を為し、また同一の工作を為す義務を負っていた。それで、自然彼等の間に親交が結ばれるようになった。
この時まで全然没交渉であった二つの精神界がここに接触を余儀なくされたのである。

ところが、ハルデヤの学者間に主として受けられていた哲学は、大衆の理解とその宗教的要求に満足に適応せられる迷信的通俗化を除く外は、純然たる汎神論であった。宇宙という広大無辺なる殿堂中からハルデヤの学者は創造した造物主を排除した。

それが為に原因と結果と混合した世界は自然に生じたものとせられ、それ自体神と認められた。神の観念それ自体はあらゆる存在を統治する宇宙の調和と、またこの調和によって統治せられたる宇宙の各部分と混合するものとされた。
故に神は交々且つ同時にその乳房をもって人々を養い、その露をもってこれを潤おすところの地ともなり、これを照らして且つ温める太陽ともなり、植物の生殖作用を行う花粉を配送する風ともなった。
神は人類と禽獣世界(きんじゅう)を繁殖せしめ、植物を生ぜしめ、発育せしめ、枯死せしめ、復活せしめると共に、生気なき物体の中にさえも現れる生命の源であるとされた。

おのづから発生する永久なる自然の気息の如きものと同一視せられた神は、世界から生じたもので、世界が神から生じたものではない。

 マッソン結社の錬金術上の労作を知っている者は、この結社の首脳者らが最も愛好している思想を直ちに了解するであろう。この思想は最初ユダヤ密教徒が創設したものであったが、中世紀の錬金術者がこれを継承し、上記結社の首脳らが更にこれを採用しているのである。ハルデヤの汎神論の基礎となり、且つ古代及び現代の神秘学の根底を為したる神化人の宗教についても同様に云うことができる。

 奇異には感じられるが、しかし、争われない私的情調に貫徹されているこの学説は、あらゆる時代を通じて人心を魅了し得る一種の美妙さをもっていた。

それはその直接の結果が、神化せられた人を崇拝することにおける人間の誇の極地となるが故に、一層強く人間を魅了したのである。
実際、もし自然界と異なり且つ自然界の創造者なる至上の存在がなかったとしたら、又もし一つ一つの物がある程度の智慧と魂とを具有しているものとしたら、そしてもし神がただ世界中のこれら総ての有意義、無意義の魂の総合であるとしたら、必ずこれら全ての魂の間に或る程度の階級が存在せねばならぬであらう。

そして各々の魂は神の一部で、その神を体現する程度は不平等であるに違いなからう。神の本素が石に於いて体現する程度は、生活し、呼吸し、成長し、枯死する木におけるより少ないであらう。木に於いて体現する程度は、思考し、判断し、行動する動物におけるよりも少ないであらう。動物に於いて体現する程度は、過去と未来とを思索し、自然界の目的を考究し、自分の工作と発明力とを以て自然界の不完備を修正し、且つ自ら無限に完全の域に向かって修養する人間におけるよりも少ないであらう。

これらあらゆる存在のこの段階の最上段に、他の全ての存在よりも比較されぬほど完全なる、且つ霊智なる、そして全世界を成し立つる神の本体の最大部分を明らかに自らの中に受け入れている人間が位しているのである。

自分以上の全ての存在を天界から排除した人間は、実際この世界の神となって、萬物は皆その下にあり、それは服従するものと考えられるのである。

 かく思考したさいより初めて、文明の堅く立っていた全ての道義的基礎はその根底から覆されたのである。自然界の唯一の真の神なる人間は、最早空虚にして何らの反応もなき天に向かって膝を屈する必要はない。
むしろその反対に自分の性向を本能に問うて、自身の内の神を求むべきである。

人間の本体にある自由意思が即ち神の意志となったので、これに反抗し、これを拘束し、これを律することは不法であるとされた。真正の宗教は、人間の全ての欲念を崇拝し、これに満足を与えることにあると云うのである。
ハルデヤの賢人らは、この学説の唯一の遵奉者(じゅんぽうしゃ)ではなかったようである。
これが古代全ての神秘学の基礎を成し立てていた。…………

 (略)

……バビロンの俘囚の時に、ハルデヤの哲学が或るユダヤの学者、就中その大部分なるレビらに影響を与えた結果としてこの分派が起こったと云うことがもはや何人も争うことの出来ない定説となった。

……ユダヤの学者らが、そのハルデヤ教師からの学説から受け容れたる知識の重要さを十分に評価していない。彼等は実際ただに万物の本体とその再生及びその初源の性質に関する迷信の一部のみならず。汎神論的教説の根源をも受け容れたのである。

……このハルデヤ思想のユダヤ思想へな寄与からパリサイ派の伝説である「カバラ」即ち神秘教が起こったのである。これが久しき間、教師から門弟へと口述によって伝えられ。爾来(じらい)八百年を経て「タルムード」の著述に霊感を与え、遂にその完全なる表現を『ゼフェル・ハ・ゾガル』に見出したのである。

 この『ゼフェル・ハ・ゾガル』とは豪華な書とい意味である。この神秘教的著書は、ユダヤ人の間に最も重きをなしている。そして遺憾ながらキリスト教から転向して神秘教徒も同じくこれを重要視している。
この書の仮想的著者は、西暦紀元50年にガラリヤで生まれた祭司シメオン・ベンウオハイであったとされている。
しかし、その如き祭司がこの時代に実際存在しなかった。そして「ゾガル」と称せらるる書は十世紀の頃に書かれたものであると断定する十分な根拠がある。著者として種々の人名を挙げることや、様々な著書の贋造(がんぞう)は、ユダヤ秘密教の著者に関する問題においては普通の現象である。

……この汎神論なる学者等の集会は、忽ちにしてユダヤ民の上に指導的勢力を有するものとなった。紀元前538年にペルシャ人がバビロンを占領した時、ユダヤ人は、俘囚から開放されたる一大期待をかけたところ、その二年を経た536年に至り、ペルシャのクロス王を勅使を以って、故郷へ帰ることを希望するユダヤ人にこれを許した。この時この俘囚は終わりを告げたのである。そして第一回の五千人からなるユダヤ人のゼルバベル引率の下に出発し、続いてエズラ及びネエミヤに率いられて多くのユダヤ人が帰って行った。

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 この第二章は⑷⑸まであります。






 ユダヤ人が神に背く度に侵略され、その後過酷な運命を辿ったことや、パリサイ派のように完全に真なる神のヤハウェ(エホバ)を捨て、悪魔崇拝に至ったことが説明されています。
また、ユダヤ人の祭司レビ族が、侵略の後にバビロンやアッシリアやハルデヤ人から影響を受け、次第にその信仰を同化していき、悪魔崇拝である神秘宗教や、汎神論を受け容れていった様子が分かります。