現エリザベス女王の夫
 フィリップ・エジンバラ公爵は、
父親がギリシャの王子、ミルフォード・ヘイヴン公爵・アンドレアスと母親アリス・オブ・バッテンバーグとの間に1921年に生れました。

この、フィリップ王配の噂は女王との間に出来た子供達と同様に悪名高いのですが、このフィリップの母親に焦点をあててみたいと思います。

⚪「 The  Queen's  Mother  in  Low  (Royal     Family  Documentary) Timeline」
Timeline ー World  History  Documentarysさん配信   (2018/8/2公開)

⚪「The  Truth  about  British  Royals」 
   seawapa.orgさん配信
    (2016/6/22公開)

 他参考…

 
 まず、このフィリップの家系というのが非常にややこやしくて、説明が難しいのですが簡単に言えばギリシャ王国の血筋の父親と、イギリスの貴族の血筋の母親になるのですが、フィリップの母親のアリスの母方がヘッセン大公家(ヘッセン大公国)の出身だったために、ドイツの血筋も引いています。
この母方の血筋があって、後の大戦中にフィリップの4人の姉達はすべてドイツ人(ヒトラーのSSエリート軍人ら)と結婚しています。

 さて、フィリップの母親アリスはイギリスのウインザー城で生れ、イギリス王室の一員として育てられる一方、母方のドイツ連邦共和国ヘッセン州南部ダルムシュタットや、ユーゲンハイム、父親のルイスの仕事(海軍士官)の赴任先マルタなどでも住んでいた経験を持ちます。

 しかし、アリスは幼い頃から言葉の発達が遅く、話せるようになっても発音が悪かったため、アリスの母ヴィクトリアが耳鼻科の医師にアリスをみせることにしました。
そこで、彼女が先天性の難聴であることが判ったのです。
難聴を少しでも克服するために、母ヴィクトリアとアリスは努力をして「読唇術」を身に着けます。
その後、アリスは英語やドイツ語を理解出来るようになり、また次にフランス語を、婚約後にはギリシャ語まで学びました。

 1902年に、伯父のエドワード7世(初代イギリス国王、インド皇帝)の戴冠式で、ギリシャの王子アンドレアスと出会い、アリスは恋に落ちます。
 二人は翌年1903年には結婚。
アリスは、ギリシャのグリュックスブルク家
(現在のデンマーク王国とノルウェー王国の王家)の一員となりました。

 結婚後、アンドレアスは軍人として、アリスは慈善活動に没頭するようになります。
 アリスは1908年、ロシアを訪問し、叔母のエリザヴェータ(ロシア皇族、ロシアの大公妃。皇帝アレクサンドル2世の5男の妻)に出会い、信仰深い看護婦達を集めた修道会を設立したいという叔母の案に深く影響を受けていたのです。
 
 ギリシャ国内は、王政に敵対する不穏な空気が流れていました。バルカン戦争が始まると、夫は軍人として、アリスは看護婦として野戦病院で働きました。大一次世界大戦1916年12月にフランス軍の爆撃を受けたアテネで、アリスと子供達は宮殿内の地下壕で篭りました。
結果、王は退位しギリシャ王家はスイスで亡命生活を送ることになります。しかし、また直ぐに王位は復活、またギリシャに戻り、しかしまた直ぐに実権が軍事政権に代わり王は亡命、と目まぐるしい日々が続きました。
混乱の中、一家はイギリスの圧力で救い出され、パリに脱出したのです。

 一家はパリ郊外の借家に暮らし、アリスはギリシャ難民のための店を手伝いました。
彼女は深い信仰心を持つようになり、1928年
43歳でギリシャ正教に改宗します。
このように戦地から逃れ、一見落ち着きを取り戻したかのような一家でしたが、アリスはこの頃から統合失調症を患うようになるのです。

彼女は、ある時期から宗教的な妄想を心に描くようになります。
それは、イエス・キリストとの性的な関係でした。アリスは宗教にのめり込みながら、イエスとの浮気を信じるようになったのです。
(下記にも書いてありますが、実際に浮気をしていたのは夫のアンドレアスの方)
もちろん彼女の妄想は異常でした。心配した家族は1930年2月、当時最新といわれていたベルリンにある
「Sanatorium  Schloss  Tegel       Psychoanalyfische  Klinik」
    chefarzi  Dr.Frnst  Simmel
の精神病院に救いを求めたのです。
当時先駆的な医師シンメル、テーゲルの診療所として重度の精神病患者の治療にあたっていました。例えば、神経症や強迫性恐怖症、アルコール中毒、コカイン中毒症を治療していたのです。
アリスの治療にあたった医師達は、アリスは「パラノイド統合失調症」であると診断しました。彼女は元々重度の難聴を患い、18歳までは巧く会話できなかったと言われていたようです。
医師達は、そうした自分の持病のためにアリスが心を閉ざしていった可能性を指摘し、また彼女のロマンチックな歴史(自分の身元を秘密にしなければならない)や、抑圧された性的な部分が何らかの形で心の中で複雑化され、塞き止められているのではないか?
そしてそれが欲求不満となって現れているのではないか?と診断しました。
2人の医師は彼女を治療する為に、この分野のある高名な人物に依頼をします。
それが、精神分析のパイオニア、※フロイトでした。
( # PEDO  GATE (1)で※フロイト一族がイギリスのエリートとして大切にされている話をしましたが、これでその理由が理解ができました。)

 フロイトはアリスを性的な抑圧、もしくは歪んだ?欲求不満から救うためにある実験を彼女に試みます。それは、驚くことにアリスの卵巣にX線を照射するというものでした。
このフロイトの変わった治療法は当時ウィーンの科学者との関係性にあったようです。

1920代当時、世界では内分泌学(ホルモン研究)が始まったばかりでした。その為、セクシュアリティに特化した移植などを含む過激派の研究がウィーンで行われていたのです。
例えば、実験のために同性愛者の男性を治療する為に男性の精巣にやはりX線を使うことがあったようです。
また、更年期を引き起こすホルモンなどの研究、実験なども行われていました。
(それにフロイトは実際、貴族の女性達のヒステリーの研究をしていました。当時ヒステリーを起こし気絶をする貴族女性が多く、フロイトは自分のヒステリー患者に対してもそれが性的な欲求不満からきていると考えていたのです。)
こうした理由からX線を使うことで抑圧された性的欲求を冷やすことになり、治療効果があると考えていたようです。

 現代なら到底考えられない馬鹿げた治療法です。しかし、なぜか1930年3月にこの実験を受けた後、アリスは快方に向かいます。
そして彼女は退院し家族の元に帰りました。
しかし、すぐにまた入院することになります。
次にアリスはスイスのサナトリウムに移されることになるのです。

 このサナトリウムは、有名人や上流階級の患者が多いことで知られ、アリスと同時期にロシアのバレエダンサーで振付師のヴァーツラフ・ニジンスキーも入所していました。

 さて、アリスの娘達は、1930〜31年にかけてドイツ貴族と結婚しましたが、当然彼女は娘達の結婚式には出席出来ませんでした。

年少の長男、フィリップ(この時8歳)は、イギリスでアリスの弟ジョージ・マウントバッテン(第2代ミルフォード=ヘイヴン公爵)と、ルイス・マウントバッテン卿、母ヴィクトリアらによって育てられました。
彼はイギリスの寄宿学校に入り、イギリスに住む王族のいとこ達と楽しく過ごすようになったのです。
2年サナトリウムで過ごしたアリスは、イタリアにあるメラーノ病院に移ります。


 一方、夫のアンドレアスはフランスに亡命後、人生の大半をこの地で過ごすのですが、パリ郊外のサン=クルーの別荘に滞在し、家庭を捨て愛人を作り続けるようになり、アリスとも疎遠になってしまいます。
アリスが統合失調症を患うきっかけは、このアンドレアスの浮気だったと言われています。
またアンドレアスは、フランス南部のコート・ダジュールに移り、愛人と共に小さなアパートやホテルの一室、ヨットの上を転々としていたようです。
その後、長男がイギリス海軍の士官になったことにより、家族とは完全な音信不通となりました。
1944年モナコ、モンテカルロで心臓麻痺と動脈硬化症で62歳で亡くなっています。


 アリスがメラーノに入院中の1937年に、アリスの三女ヘッセン大公妃セシリアの家族が飛行機事故で亡くなります。助かった2歳の孫も後に病死してしまいます。
失意のまま1938年アリスは退院し、アテネで2つしかない寝室に住みながら貧しい人々を援助する活動を始めるのです。

 そして第二次世界大戦、アリスは極めて難しい立場になります。娘達の夫はドイツ側に立ち、息子フィリップはイギリス海軍士官だったからです。

 そんな中、アリスは義兄のゲオルギウス所有のみすぼらしい家に移り住み、赤十字社で働くようになります。
炊き出しをしたり、スゥエーデン王太子妃となっている妹ルイーズから医薬品の提供を受け活動に使いました。彼女は2つの避難所を孤児や浮浪児のために組織しました。

 1943年ドイツ侵略でアテネが占領され、ユダヤ系ギリシャ人の大半、およそ75000人いたユダヤ人の内60000人が強制収容所に送られました。後に2000人が殺されています。

1944年アテネが開放され、1947年4月にアリスはイギリスに戻るのです。

 1947年11月、息子フィリップとジョージ6世の後継者、エリザベス王女(後のエリザベス2世)が結婚することになります。
その式にアリスは出席を許され、バッテンベルク家の年長者として、ウェストミンスター寺院の国王夫妻と向かいあって座りました。
しかし、この挙式にはイギリス国民の反ドイツ感情を考慮し、アリスの娘達は招待されませんでした。

1949年より、アリスは正教会の修道女として、看護をする修道女の組織を設立しています。1953年のエリザベス2世の戴冠式では、アリスは修道女の装いで出席しています。

晩年の彼女はどうやら穏やかな生活を維持できたようです。息子夫婦の傍に住み宗教活動をし続けました。その後、1969年にアリスはバッキンガム宮殿にて亡くなっています。
遺言で「イスラエル・オリーブ山の峰の
※ゲッセマネにある**聖マリア・マグダレナ修道院に埋葬してほしい。」と言っていました。
その遺志は1988年、息子のフィリップの力で叶えられています。


 ※ゲッセマネ、ゲッセマネの園
 
 エルサレムのオリーブ山の北西麓にあった地名で、新約聖書の福音書で知られています。
名前はアラム語で「オリーブの油搾り」「オリーブの酒船」を意味しています。イエスと弟子達が最後の晩餐の後祈りを棒げた場所。またイエスがイスカリオテのユダに裏切られて捕縛された場所でもあるのです。

また、聖母マリアが埋葬された地とも言われています。正教会では、「生神女就寝祭」を毎年
8月15日に行っています。
これは聖母マリアの永眠を記念する正教会の12大祭の一つ。
聖書には全く記述が無いため、伝承に基づき行っているといいます。マリアは死後3日目、キリストと同じように墓には居なく、墓に訪れた12使徒達の前に現れ、己が天の生命に還されたことを告げたのだそう。
(これは完全な作り話です。聖母崇拝と、死人崇拝をさせるためのものです。)

 
 **聖マリア・マグダレナ教会
 
 ロシア正教会に属した教会。正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つ。

❴✢この正教会の近くにカトリックの教会ももちろんあります。❵


 以上ですが、一応このフィリップの母親アリスに関してはあまり世間では悪くは言われていないというか、調べると美化されたものが多かった印象です。
しかし、元々がイギリス王族の血筋ですし、ギリシャ王族の夫アンドレアスと共に戦争の混乱はあったものの、結果は守られた人生を送っていますからなんとも言えません。
(ギリシャ国民は多くの犠牲に遭っています。)

それと、彼女の精神的な病気がそんな簡単に治る筈もないので、かなり捏造された可能性があります。つまり良い箇所しか表に出していないのだろうと推察しています。
当たり前ですが、ロイヤル・ファミリー寄りの歴史ドキュメンタリー、栄光の一族としての構成や映像が多かったのです。

 
 ここで何が言いたいかといえば、
アリスに限らず、キリスト教の修道女達、特に歴史に名前が挙がるような人物は、修道士や牧師同様、やはり私的には全て胡散臭いということです。


 例えばこの人、
 マザー・テレサを取り上げますと、
〈本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ〉
オスマン帝国ユスキュプ出身で、両親はマケドニア地方のカトリック教徒でしたが、アルバニア人にはイスラム教が多くマケドニア地方には正教徒が多かったので、珍しい家族だったようです。
また、父親は地元の名士で手広く事業を営む実業家でした。 
マザー・テレサは上流階級の娘だったのです。
(世間のイメージとはまるで真逆ですよね。)
彼女は1946年9月に、休暇でダージリンに向かう列車の中で「全てを捨てて貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたといいます。

  
 彼女の経歴は長いので後は簡単に…

 テレサは、カトリック教会の修道女
「神の愛の宣教者会」を1950年ローマ教皇庁により認可、創立しました。

1971年教皇パウロ6世は自らが制定した
「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受賞者に
テレサを選びました。
これを皮切りにテレサは数多くの賞を受けていくのです。
しかも嘘みたいに短期間に多すぎるほどに!

1971年ケネディ賞  
1975年アルベルト・シュバイツアー賞
1979年ノーベル平和賞
1980年バーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)
1983年エリザベス2世より、優秀修道会賞
1985年アメリカ合衆国大統領自由賞
1996年アメリカ名誉市民賞
(アメリカでは彼女含め7人しかいない)
1997年議会名誉黄金勲章
他多数の大学の名誉学位を受けています。

しかし、
ここからがテレサの裏の顔が見えてきます。

1969年、アメリカ人のマルコム・マッグリッジが彼女のドキュメンタリー映画「すばらしいことを神様のために」と、書籍『20世紀の証』によりマザー・テレサの活動は全世界に知れ渡るようになったといいます。
 
 しかし実はこのマルコムは、
イギリスのジャーナリストで作家、またメディア番組の司会者でもあり、第二次世界大戦中は兵士であり、なんとスパイでした。

もう調べてきた人にはこれだけで
マザー・テレサが造られた英雄であり、聖女だったことが見えてきます。


 非常に数々の素晴らしい奉仕活動を行い、彼女の言動には常に称賛と注目が集まったのですが、彼女の死後、彼女の弟子の修道女達からテレサの表の顔と裏の本当の顔が暴露され、随分前でしたが一時期話題になりました。

 テレサは常々修道女として「倹約を美徳」としていたけれど、実は非常にお金に執着があり、世界中から貧しい人々の為に集められた寄付金は貧しい人々よりも、ローマ法王に送られ(おそらくバチカン内で法王等が贅沢するために使われた)彼女はバチカンから褒められたいが為にそうしていたとか。
修道女達がテレサの断りを得ず、貧しい人々のために集めたお金を使おうとすると、テレサは烈火のごとく怒ったとか。
性格も表向きは慈悲深い聖母マリアを演じていましたが、弟子達には女王様のように振る舞い意地が悪く、弟子達を苛めたり厳しかったとかそんな内容だったと記憶しています。その時はまさか!?と思っていましたが、今は全く疑いません。

トカナでも、マザー・テレサは重篤の患者に対して自宅で安らかに臨終を迎えることを推奨して、基本的に患者を病院には送らなかったといいます。また、テレサに救いを求めた病気の貧しい者の3分2は医療ケアを希望しましたが、施設に引き取った者の3分1は適切な医療処置が行われずに死亡したそうです。
その上、テレサの施設にやってきた医師の多くは衛生環境の悪さと、痛み止めなどの救急医薬品と食料の備蓄の乏しさにショックを受けたというのです。
インドの大規模な洪水や、インド史上最悪の化学工事事故の被害者も現地に弟子を向かわせましたが、聖母マリアのお守りを配っただけだったそうです。

また、あろうことかハイチの右翼独裁者から勲章と献金を受け取っています。
彼女の財団はいくつもの秘密の銀行口座を持っていますが、そこの資金の発覚を恐れてか慈善活動に使われることはなかったようです。
(恐れるよりも慈善活動に使う気が最初から無かったのでしょう。)
また、彼女が起こしたとされる奇跡も現在では捏造だったのでは?と言われているのです。

 結局、マザー・テレサが生涯かけて人々のために奉仕したのは一円もかからない祈りだけだったことになります。

ところが、テレサは1997年に亡くなった際、インド政府によって国葬として送られているのです。インドの政治指導者や首相以外で国葬されたのは、テレサと、あの2011年に亡くなった有名なマジックオヤジのサティヤ・サイ・ババだけなのだそう。
これを茶番といわずしてなんと言いましょうか?



⚪「We  Saw  Nuns  kill  Children : The  Ghosts  of  st. Joseph's  Catholic  Orphanaga 」
   BuzzFeed  Newsさん配信
    (2018/8/27公開)

 1990年バーモント州バーリントンにある、
セントジョセフ孤児院で起きた幼児虐待事件のレポートです。
100人を超える幼児達を収容していたこの孤児院では、長年に渡り子供を虐待していといいます。殺された子供もいたようです。
今60〜80歳代の孤児院出身者達が当時の辛い体験を語っています。
この孤児院を運営していた修道女達は、事件が発覚した後裁判にかけられ逮捕されています。
こうした事件はこのセントジョセフだけではなく世界中で起きているのです。