また、los✽✽heep 01さんのyahoo
ブログより以前からのつづきです。


 元サタニストの自叙伝(32)

  邪悪な聖杯〈1.〉

「あなたは主の杯を飲むこともできないし、悪魔の杯を飲むこともできない……」
コリント第一10:21

何十年かそこらで、いわりる聖杯の伝説に対する関心は突然復活した。ブロックバスターの映画、例えば「エクスカリバー」「フィッシャーー・キング」、「インディアナ・ジョーンズと最後の聖戦」、さらにもっと早くに議論の的であった「聖なる血、聖杯」などによって、大学の英文学の講義以外に聖杯について話をするのを可能にし、ぽかんとした眼差しで人に見つめられないようにさせた。言うまでもなく、聖杯は同様に私達の霊的な探求に欠かせない部分であった。この時点で議論しなくてはならないのは、それには以前の章でふれた最も暗い類のトランシュゴッティアン魔術に関係する、驚く程の危険性があるからである。
私が最初に聖杯の伝説のことをよく知るようになったのは、高校一年生の間に、アングローアメリカンの詩人、TSエリオットのことを集中して学んだからである。エリオットは聖杯のイメージと、フィッシャー・キングの伝説にかなり負っており、彼の「見捨てられた地」も同様にタロットカードに負っている。 
通常の理解では、聖杯伝説は神秘的な杯を探求するという中世のロマンスであり、その杯は恐らく最後の晩餐にイエス・キリストがそこから飲んだてあろうものである。この同じ杯は後に、アリマタヤのヨセフがゴルゴダで、槍がキリストの脇を突き刺した時に流れた時に流れ出た血を受け止めるのに使われたと言われている。後にキリストが蘇り昇天した後、その伝説はこの同じアリマタヤのヨセフ(彼は恐らく裕福な銅の商人であった)が、福音を広めるための伝道旅行の際にその聖杯を自分の船に乗せたとしている。その旅によって、彼はローマ帝国の支配から一番遠い所、大ブリテンまで行くことができた。伝えによると彼と12人の仲間達は、イングランドの南西の海岸に落ち着いたという。そこは現代のブリストル海峡の近くである。この住処はグランストンベリーとして知られるようになった。
2世紀の初頭、ヨセフと12人の仲間が死んだ後、聖杯は恐らく失われてしまった。この時点で伝説はいくつかの異なるバージョンに分かれている。あるバージョンは、神秘的なフィッシャー・キングによる、その出来事に続く聖杯の探査に関連づけている。彼の傷は純粋な騎士によって聖杯をかざすことによって癒されるという。他のバージョンは聖杯を半伝説のアーサー王と円卓の騎士と関連づけている。更に他のバージョンでは、それを謎めいたナイトテンプラーと中東への十字軍と関連づけている。

もっと最近では、幾人かの学者は、聖杯伝説の全体は単にそれにキリスト教徒のうわべだけを塗った異教の教えであるということを言っている。ブリテンにせよ他の地にせよ、古代の異教に先立つものが聖杯のコンセプトには存在した。一番有名なのはウェールズの伝説の「Annwyn(ハデスのウェールズバージョン)の苦しみ」や、伝説のCerridwen(ウィッチクラフトの女神の名前や顔の一つ)の黒い大釜である。

 クリスチャンか異教徒か?

聖書は最後の晩餐のイエスによって使われたその杯に何の重要さも与えてはいない。では、聖杯は「本当の十字架」のような遺物の探求に似たただのロマンチックなカトリックの迷信なのだろうか?
またはそこにはより暗い、より邪悪な何かが働いているのだろうか?それはクリスチャン的なのだろうか、または異教徒的なのだろうか?
更にはサタン的なのだろうか?そのことを知るために、私達は私の個人的な探求へと戻ろう。

 現代のウィッカでは、聖杯伝説は魔術師達が彼らの伝説を築く周辺の鍵となる神話の一つである。私が本当になぜその主題が自分をそのように惹きつけるのか理解し始めたのは、私のウィッカの第2、第3位階へのイニシエーションの間のことであった。私は聖杯が偉大な女神の象徴であり、とりわけ闇の女神Cerridwenとその釜に関連づけられていることを知った。
通常のウィッカでは、女神は3重の存在だと言われている。私達は彼女をヴァージンゴッデス(新月)、マザーゴッデス(満月)、そしてオールドワイズクローン(青白い月)として崇めていた。他のシステムではその女神に愛人、妹としての女神を加えて、5つの頂点を持つペンタグラム(五芒星)をウィッチクラフトではとてもよく見られるものとしている。
Cerridwenはクローンの伝統的な名前である。私は古代の伝説において、彼女は不死の黒い釜(The  Black  Caul  dron)の番人であることを知った。これはすするだけで信じられないような洞察力や知恵、超自然的な力をもたらす釜なのである。恐らく、これは最も偉大なドルイドの吟遊詩人、Teleisinが彼の力を得た方法であろう。この同じ釜は後にAnnwynの地下王国から、アーサーと彼の騎士達によって「苦しめられ、盗まれ」、死んだ体を蘇させるために使われた。
(中略)

 伝説ではアーサーがクライマックスで彼の私生児であれ邪悪な息子のモルドレッドとほとんど黙示録な戦いとなり、致命的な傷を負う。死にゆく中で彼は自分の魔術的な剣エクスカリバーを投げ、Lady  of  the  Lakeの手に戻し、ボートは彼を棺に納めて連れ去っていく。このボートは3人の謎めいた女性(3重の女神か?)が乗っており、彼等はアーサーを神秘的な島アヴァロン(そこはある人はクランベリーだと言う)もしかしたらもう一つの次元かもしれない。ーへと運んでいった。
(略)


    邪悪な聖杯〈2.〉 

 ある強力な類似性が、この伝説とイエス・キリストの死、復活、再臨の間にはある。多くの点で、アーサーはほとんど反キリストの人物である。少なくとも偽キリストという点においては、そのどちらも私には起こっていなかったし、私を悩ませてはいなかった。私はアーサー王の帰りを今か今かと待ち構えていたし、他の魔術師達も同様だった。
ドルイドとクリスチャンが共存して調和のうちに働く、正義と法が支配する慈悲溢れた王国や、貴族的王がそこを支配しているという幻想はとても抗いがたいものであった。グィネヴァ(アーサー王の王妃)とランスロット(彼の最も偉大な騎士であり友人)のひどい仕打ちや、それに続く円卓会議の崩壊さえ不気味な聖書的含みを持っていた。
(アーサー=イエス、ランスロット=ユダ)

この高潔さ、英雄物語と質の高い文学(テニソン、マロリーなど)全てが使われ、トロイの木馬のように私達の生活の中に聖杯として持ち込まれた。聖杯を探求するということは、アーサーの支配における最も重要な二つの仕事のうちの一つである。(もう一つは円卓会議の創設)
どちらの神話のバージョンを読んでも、騎士のうちの一人か二人(ガラハドとまたはパーシバル)が聖杯を見つけ、それがかろうじて戻ることのできるある種の天体の上へ移動させるのである。ある神話ではガラハドが恍惚のうちに死んでいく時、天へと彼をテレポートさせさえもする。


 聖杯の秘密とは?

何十年前の「聖なる血、聖杯」の出版とともに、そのミステリーに新しいひねりが加えられた。著者のベイジェント・リー他は、聖杯がキリスト教徒を揺るがす(と主張しといる)秘密のシンボルであるということを理論化した。彼等は教会(ローマカトリック)が、2000年もの間秘密結社であるシオン修道会と分かつ、イエスとマグダラのマリヤの子供の時まで遡って続く家系の王族の血の流れのことである。シオン修道会は古代に組織された組織であり、この王族の血脈の保護のもとにあったテンプル騎士団に由来しているという。修道会の長はイエスの直系である先祖のうちの一人であったであろうという。彼等はイエスが結婚していたという認識は驚くべき考えであり、それがキリスト教会の基盤を揺るがすであろう、そして今日、周りにいるその血の中にイエスの血を受け継ぐ人々がその仕事を完成させるのだと主張している。
何故彼等は、このことがキリスト教徒を破壊するかもしれないと考えているのか明らかではない。聖書はイエスが結婚していたかについては沈黙している。もし彼が結婚していたとすれば、彼の妻について聖書が何も言っていないのは明らかにおかしい。新約聖書で言われているイエスのただ一つの花嫁は、彼の本当の教会である。
そのことはローマカトリック教義において、少しは影響するかもしれない。というのはローマカトリックの(聖書的でない)独新主義の司祭はイエスが結婚していなかったので、それゆえ彼の司祭もそのモデルに従わなければならないという前提に基づいているからである。しかし、ほとんどのクリスチャンにとってそのような暴露があったからといって、仮にそれが真実でさえあったとしても信仰の土台にはあまり影響しないだろう。
気をつけてほしいのは、これらの著者達はイエスが神であることを信じていないことだ。その後に続く本は、彼等がイエスがユダヤのメシアである以外の何者でもないということ、また彼が教会を始めようと意図したのではないということを否定している懐疑者だ、ということか暴かれている。その教会というのは、彼等が主張するに全てパウロがしたことだということである。これは新しい題目とは言えない、歴史的にも聖書的にも支持されていないのである。
しかし、イエスが聖なる存在ではなかったとしたら、それでは彼の血脈には何の重要さがあるのだろう?著者達は、バチカンがイエスが神であり独身であったということを信じており、それで彼等がイエスの家系の秘密を守るということに関心を払った。というのを重要な事と見なしていることに満足している。これでは彼等の大きな秘密は全然大きくない。だがどのようにしてこれらの基本的に世俗の作家達が、その真実に軽々しく近づいていったのだろうか、その聖杯の奇妙な秘密にさえも。


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 海外ではアーサー王の伝説の話は今でもとても人気があり、アーサー王はヒーローとして描かれているみたいですが、この話が反キリストであったということまでは正直考えたこともありまでした。というか、聖杯についての映画もよく何度も描かれてきているので、もう分かつてますけど世に出てくるものは全部反キリストとなんだと改めて思いました。

アーサー王の物語の中の位置づけとして
 アーサー=イエス・キリスト
 ランスロット=裏切り者のユダ
と描かれているという見方でしたね。アーサーもランスロットもハリウッド映画の別の話にもよく出てくる名前です。反キリストを大衆に刷り込むわけですから…。
聖杯でシオン修道会が出てきた、トム・ハンクスの有名な映画がありましたね。
イエス・キリストとマグダラのマリアが実は結婚していて子供がいた。そのキリストの血脈を守るのがシオン修道会だった。なんて話でしたから思い出しました。
ちなみにビルさんのこの自叙伝は、今言ったトム・ハンクスの映画が作られるずっと昔に出版されたものです。

それとビルさんも言っているように、聖書の中でイエスが聖杯についてその器を特別視していないのは読めば誰でも分かるので、ローマカトリックがわざと特別視させて崇拝対象としているのは明らかということです。
その上、この聖杯を魔術のアイテムとして使っていることも教えてくれています。
よく悪魔崇拝儀式に参加させられた証言者達の話の中でも悪魔崇拝の儀式として赤ん坊を殺し、その血を聖杯として悪魔崇拝の信者達が競うように飲む話がされています。
ローマカトリックは(まあ、悪魔教会全般的にですが)表向きは聖杯を「神の器」として崇め、裏では悪魔崇拝のサタンの為の生贄の「血の聖杯」として悪魔を讃えているわけです。