アメーバさんが
神霊主義5.で長い投稿記事で
重要な部分ををいきなり消してしまいました。こういう事は私がブログを始めた頃から何度かありました。私の操作ミスかと思ったりしていましたが、完全に違います。おかしい消し方なので意図的です。これも消すかもですが消された続きを再び書いてみようと思います。

 
 死後の世界・霊界の歴史続き

17〜18世紀エヌマエル・スヴェーデンボリの後、18世紀にヨーロッパで唯物論という考え方がある程度広がりました。唯物論では物質以外は存在しないと考えるので、死後に霊が残るとは考えず、霊界の存在は想定しませんでした。
1847年にははアメリカのアンドリュー・ジャクソン・デイビス(霊能者)が「自然の原理」を出版し、霊界の仕組みを解きました。1857年にはフランスのアラン・カルデックが輪廻や死後の世界について記した「霊の書」(交霊会で集めた霊言を編纂)を出版しました。1920年にはイギリスのモーリス・バーバネルが霊媒役となり、「シルバー・バーチの霊訓」を出版。死後の世界や霊界に関することを伝えました。
日本では、大正〜昭和に宗教大本を立ち上げた出口王仁三郎が 入神状態で霊界の諸層について語り「霊界物語」をまとめました。その大本に入信していた浅野和三郎は、退会後「心霊科学研究会」などの霊界を探求・研究する組織を創設し、「日本の心霊主義運動の父」となりました。この流れから、浅野正恭、新倉イワオ、中岡俊哉、三浦清宏、つのだじろうなど多数の心霊研究家が輩出されています。昭和〜平成にかけて大本教の信者、丹波哲郎が霊界に関する著書や映画を制作し、人気を博しました。2005,年〜江原啓之や三輪明宏等がテレビ番組「オーラの泉」に出演、人々にスピリチュアリズムや霊界に対する関心を高めさせました。

 19〜20世紀になると、自然科学に過度の期待を寄せる人々が増え,霊界のことまでも自然科学で解明しようとする試みが行われました。 


 ここから、大本、浅野和三郎について深堀しようと思います。

浅野和三郎1874年(明治7年)茨城県に代々医者の家系の三男として生誕しました。1899年(明治29年)、東京帝国大学に入学、小泉八雲(本名・パトリック・ラフカディオ・ハーン)の英文学担当教師に教えを受けます。在学中に機関誌『帝国文学』に処女作「吹雪」を発表します。その後も小説などを続々発表し文才を発揮、さらに英文学科に在籍しながら英米文学の翻訳にも手を広げ、アーヴィングの「スケッチブック」、ディケンズの「クリスマスカロル」、エドワーズの「奇々怪々」を出版しました。このような研究が神霊研究の下地になったのです。
1899年(明治32年)に東京帝国大学英文学科を卒業し、海軍に請われて、横須賀にある海軍機関学校の英語教官に赴任します。機関学校の同僚には神智学会員のスティーブンソンがいました。
1915年(大正4年)の春、浅野の三男が原因不明の熱病になり、多数の医者にみせても回復せ先ず半年を過ぎていましたが、三峰山という女行者の言葉通りに快癒した事から、神霊研究に傾倒します。1916年(大正5年)に海軍機関学校を退官し、当時もっとも実践的な心霊研究をしていた大本に入信しました。浅野は教団で有力な信者となり論客として活躍するのです。


 とここまでで、浅野和三郎の生い立ちから東京帝国大学に入学し、小泉八雲に出会い、様々な英文訳をし、卒業後に就職先が海軍機関学校であり、またそこで同僚にあの神智学のスティーブンソンがおり、また息子の原因不明の熱病から霊媒師に出会い、その流れで霊媒カルト教団の大本に入信するということに、悪魔サタンの導きと計画が伺えるようです。彼もまた、そうして大本から独立し、「日本の心霊主義運動の父」となり現在に至るまでの「心霊科学研究」の礎を築くのです。


 すみません、短くさせてもらいましたが、次回に続きます。