[ 神々の姿形・偶像崇拝とは ]

 神を信じる信じないはあれど
 世の中はとにかく神様だらけです。
 中でも日本は最高に神様の数が
 多いことで有名なのです。

 
 ① まず、神々の姿形についての考察

 神の像の種類については
歴史上実在した人物を神と崇めて、その像を形造ったもの、例えば代表的な者として 釈迦、日蓮上人、空海、平良清盛、イエス・キリスト・聖母マリア、他たくさんありますよね。

 あとは、神々の世界に居るであろう、
人間が想像して形造った神像があります。
例えば大仏様だったり、観音様だったり、阿修羅だったり、弥勒菩薩だったり、弁天や大黒天だったりでしょうか。これもたくさんありますね。

 それと動物とか自然の神様の像ですね。 
これは主に日本の神社には多いですね。
日本神道が自然を神様としたものが多いからでしょうが、これも代表的なものとしては、
キツネのお稲荷さんをはじめ、龍、蛇、牛、蛙の像がよくあり、鶴、亀、犬猫、猿、魚系のもあります。
自然の神様とくれば、外国も同じですが、太陽、月などの天体、山、海、川、火、風、水、大地、木や石などがあります。これは想像の姿形の神像もあればただ自然をそのまま拝む場合もあります。

あと、極めつけは妖怪系ですか。日本ではカッパとか天狗とか、鬼神様とかですね。外国では妖精の類ですか、名前は分かりません。でもこれ等もおそらく神様の部類に入るのでしょうか。

 体の部位まで神様といえるのか?

 頭の神、眼の神、口、耳鼻の神、足や手もあるのでしょうか?最悪なのは男女のシンボルを祀っているものです。これは古代からあり、世界でも多いといいます。はっきり言ってここまでくるともう何でも有りで気色悪いです。

 神々の像の種類をとりあえず、ずっと挙げてきましたが、人間の姿形以外はやはりおかしな感じがしてきます。

 神と名が付けば何でも有難がるような
世界中何処でもそんな風潮があるようです。
 特に日本人には多いようです。

 だいたい、神様は多ければいいのか?です。
 常々、質と量は比例しないと思います。
   
   
 
   ② 偶像崇拝とは何か
   旧約聖書より、神と悪魔と人間

 創造主は唯一一人であり、その御力は偉大です。創造主の他に並ぶ神様は存在せず、私達はそれ以外を必要としません。
 
旧約聖書の『創世記』に神様がどうやって、天体と自然と動物を造ったかが描かれています。
 あらゆる物を造ったあと
 最後に「神は自分の姿によく似た姿に、人を形造った」とあります。
これは、聖書の創世記の中でも最もよく知られた場面です。
 
 アダムとイブは、神に「あなた達はこのエデンの園のどんな食べ物も食べて良いが、この、知恵の木からなる果実だけは食べてはならない。食べたならあなた達は死ぬようになる。」と言われ約束を守っていました。しかし、それを知っていた悪魔サタン(*サタンの意味は神に反抗する者・堕天使)は蛇に化けて、イブに「この知恵の実を食べても決して死なない。しかも、あなた達の眼が開け、神のようになれることを神はご存知なのだ。」と嘘をつき、その実を食べさせてしまいます。後にアダムもイブに従い禁断の実を口にしてしまうのです。(アダムはイブを愛するが故だったようです。)この事実を知った神は悲しみ、怒り二人をエデンから追放してしまうのです。永遠の命を授かって創造された二人でしたが、神との契約を破った為にその肉体と魂に「罪」を負います。そしていつか寿命が尽きて死ぬ運命となったのです。

 ここで悪魔は「あなた方は神のようになれる」と嘘をついていることに注目してください。悪魔は「人間が創造主のようになれる」と言っているのです。悪魔はいきなり大胆な嘘をつきました。しかも「神があなた方をだまして、その知恵の実を食べさせないでいる」と神を悪者扱いまでしています。

 人間が神になることなどあり得ません。
どんなに辛い修行を積んでも、心がどれほど清かだろうと、創造主になれるはずなどないのです。普通に考えても、どうして造られた者が作り主になれるというのでしょうか?

 死後、霊になれば神になれるなんていうことを唱える人もいますが根拠がどこにもありません。すべての霊は、神のものなのですから。神の元に帰る事は出来ても、私達人間は神には絶対になれないのです。いいえ、人間でなくとも天の大天使でさえ、誰も神には永遠になれません。

 この人類の最初に、悪魔サタンが人間についた嘘、作り話は、この創世記から始まり、現在も続けられています。あらゆる宗教や科学、ニューエイジ、自己催眠、自己啓発、瞑想ブームの中で同じ嘘が練り込まれているのです。

 悪魔サタンは、アダムとイブを騙したことを、自分達(神に反抗するサタンの仲間、同じ堕天使達)の勝利として、その後の人間達にもずっと同じ嘘を囁き続けています。

「○○をすればね……、もしくは○○を信じるなら、あなたも神様のようになれますよ。」と。

 アダムとイブの後の場面で、神は人間達に対して「わたし以外の神(創造主のわたし)を決して崇拝してはならない。また、木や石やその他のどんな素材であっても形造り、それを神として崇拝してはならない。」と厳しく指導しています。もし、その命令を破ったなら、それは神の最も忌むべきことであり、神への最大の侮辱行為となるからです。
これが世にいう❴偶像崇拝❵の意味です。
神様からの立場として考えれば、至極当然の要求ではないでしょうか。
 
   
   ③ 世界中にある、神々
    おびただしい偶像崇拝の数々

 少し話を最初に戻すと、ということは
この世にあるあらゆる神々の像は、むろん神の霊など宿ってはいないということなのです。
 どんなに人間の手で心を込めて素晴らしく精巧に神の姿形の像を造ったとしても、それはただの物体の像に過ぎないのです。
もし、そこに何らかの霊的な感じを体感したなら、それはまともな霊ではないという事になります。天上の神でも、神の使いの天使でも決してありません。


 ならばさらに深堀して、神仏像だけに限らず御札やあらゆるお守りや、グッズはどうでしょう。それ等も、当然神の霊など宿ってはいません。神はそれらも忌み嫌い、まったく許してなどいないのです。それに当たり前ですが、そもそも神は金銭など欲してはいません。つまり、それらに神仏が宿るとして人々に信じ込ませているのは神ではなく、お金を欲しがる「ずる賢い人間」という事になるのです。

 はっきりいえば神官や僧侶達の事です。彼等は人々に偶像崇拝の神を拝ませることで、つまり神仏で、商売をしているのです。これ等のことは古代より行われてきました。余りにも長い歴史がある為に誰も悪い行為であるなどと考えもしません。
 
 
 故に、彼等が神様に奉仕をしているなんて誇らしげに言うのは実に白々しいものです。
いいえ、あえて言うなら、彼等は悪魔の神に毎日奉仕しているのです。


よく、お賽銭で、5円もしくは100円の賽銭を投げて「今年は良い年でありますように。」とか、もしくは1万円を投げて「こんなに払ったんだから倍にして返してくれよな。」とか、
または絵馬などを購入して「彼氏が出来ますように。」もしくは「試験に合格しますように。」などとやっているのは愚かな事です。
神が偶像崇拝を許さず、嫌っておられる場所で祈っても神が聞いておられるはずなどないのです。