鶴見三業地 (家族の記憶、冒頭部分) | 波涛の彼方ー小野家の人々ー

鶴見三業地 (家族の記憶、冒頭部分)

 

 首筋になにか冷たいものを感じて、ふと空を見上げると、雪のかけらが幾つも舞い降りてきた。暗い灰色の雲が、空一面を低く覆っていた。

 急に空気が冷たくなってきた。

 男はコートの襟を立てて、寒さをふせぎながら、夕暮れの三業地を、行きつけの中華料理店へと足を速めた。まだ時間の早いせいか、通りに人影はほとんどなく、ニ、三人の客引きの男たちが道の真ん中で立ち話をしている。小料理屋やバーが軒を連ねている或る路地の一角に中華料理「珍味」は赤堤燈をぶら下げていた。

 男はその路地の入り口でほんの少しだけ立ちどまって、明かりのともった看板やネオンの光が色とりどりに重なり合う光景をぼんやりと眺めるのが好きだった。そうするといつも決まって何とも言えない不思議な気分がこみ上げてくるのだった。此処だけは、まるで時間が止まってしまったかのように、物皆すべてが黄昏て見えた。

 男は珍味の赤堤燈に灯がともっているのを確かめてから、きょうもまた、人っこ一人いない路地へ足を踏み入れた。


「おかみさん、雪が降ってきたよ。外はすごく寒いよ」

 裕三はガラスの引き戸を開けて言った。店の間口はほんの一間足らずで、左側の引き戸が、カウンターの端をふさぐ形で固定されている。

「あら、原田さん、いらっしゃい。初雪だわね」

 おかみさんは、カウンターの席からゆっくりと立ち上がった。

「おやじさんはどうしたの?」

「さぶちゃんを連れて散歩に出たんだわ。でも、まだ戻って来ないのよ。さぶちゃんがまた逃げちゃったんだわ、きっと」

 店には、さぶちゃんという名の若い柴犬が飼われている。店の奥のほうに居場所があって、普段はそこにおとなしくしていた。

「さぶちゃんは、おやじさんが嫌いなのよ。自分の思いどおりにならないと、すぐ怒り出すんだから。きょうは何にします?」

 おかみさんはカウンターの中に入って笑顔を見せた。

「熱燗で一本、それに餃子をひとつ」

 裕三は、ガラス戸越しに外の見えるカウンターの席に腰かけて、いつもと同じものを注文した。カウンターは客が四、五人も入ればすぐ一杯になってしまう。が、裕三の来るときは、なぜか相客のいないときのほうが多かった。燗をつけるお湯の音を聞きながら、裕三は、目の前の古びた漆喰の壁を黙って眺めていた。年月を経て繕いのきかなくなった店の造作は、そのまま珍味の老夫婦の過ごしてきた長い歳月を感じさせた。それはまた、人が年を取ることの悲しさと、年を取ることで、初めて得られる安らぎとを同時に表わしているようにも思えた。

「はい、どうぞ」

おかみさんは、熱いお酒の入っている徳利を、ガラスのお猪口と一緒にカウンターの上の台へのせた。裕三はハンカチでそれを受けて、カウンターのテーブルへゆっくりとおろした。ツーンという安酒の匂いが鼻をつく。徳利のなかを覗き込むと、熱いお酒のなかを小さな泡が幾つも上ってきていた。しゅんしゅんという泡の音が、今にも聞こえてきそうな気がする。裕三には、泡が希望を抱いて上ってくるのか、望みが消えて上ってくるのかよく分からなかった。両方の泡が同時に上ってくるような気もした。

「おかみさん、雪もだいぶ降ってきたよ。今日は積もるかもしれないね」

 裕三は外を見て言った。

 するとその時、店の外で「ワンッ」と犬の鳴く声がした。膝の悪いおかみさんは足を引きずりながら引き戸の所までいって、「あら、さぶちゃんだけだわ」と言って、急いで犬を店の中に入れた。外の冷気が一瞬、暖房で温まった空気を押しのけて店内に流れ込んだ。さぶちゃんは自分でニ、三度背中についた雪をふるい落としてから、裕三と少しだけじゃれ合った。そうして、満足したように店の奥の自分の居場所に戻っておとなしくしていた。

「おやじさんはきっと向かいの雑居ビルのメーターを調べてるんだわ。ビルの持ち主が京都へ行ったっきり帰って来ないんで、おやじさんが管理を任されてるの」

「ストリップ劇場があったビルですか?」

「そう、今はもう、やってないけどね」

「鶴見ミュージックでしたっけ。行ってみたかったなあ」

「映画館も閉館しちゃったし、三業地もどんどん寂しくなるわ・・・」


 それからニ、三日して裕三が再び珍味へ顔を出すと、おやじさんがさぶちゃんと一緒に店番をしていた。おやじさんは小柄で痩せていた。また、年のせいか耳がかなり遠かった。

「おかみさんはどうしたの?」

 裕三は少し大きめの声で聞いた。

「今、風呂に出かけた」

 おやじさんは、やはり大きな声でぶっきらぼうに答えた。珍味は棟割長屋のような横に長く続く三階建の雑居ビルの一階にある。夫婦は二階と三階を住居にしていたが、内風呂が無いので風呂は外に出かけねばならない。銭湯は店の裏手を大きく蛇行して流れる鶴見川の川向こうにあった。

「おやじさん、来年も台湾へ帰るの?毎年、五月頃だったよね」

「ああ、そうだね」

 そう言って、おやじさんは遠くを見るような目をした。

「俺の故郷だからね・・・でも俺ももう年を取り過ぎた・・・今度で最後になるかもしれないよ・・・」

 と、中国語訛りの言葉でとぎれとぎれに言う。しかし、眼鏡の奥に光る彼の小さな目には、なにか期するようなものが感じられた。

「台湾の五月も綺麗なんでしょう」

 と、裕三は応じたが、彼はこの時、なぜか返事をしなかった。

「お酒を一本つけてください」

「はい、お酒一本」

 大きな声で、きまじめに復唱して、おやじさんはカウンターの中に入った。そうして、おもむろに燗の準備を始めた。

「俺も若い頃はよく飲んで歩いたもんだ。これもいたしな」と言って、おやじさんは小指を立てて頬をゆるめた。屈託のない笑顔だった。そして、「相手はもちろん玄人だ。俺は玄人しか相手にしねえ・・・」と付け加えた。さぶちゃんは店の奥でおとなしくおやじさんの話を聞いている。

お湯がしゅんしゅんと音を立てている。その音はやがて木魂しながら、裕三の心の底に悲しく落ちていった。


 年が明けてまだ間もない或る日、裕三は深夜の三業地へ出かけた。吐く息が、凍てつくような漆黒の夜空に白く漂う。仄暗い通りの向こうから、客引きの男が肩をすぼめながら近づいてくる。顔見知りのTさんだった。年配のTさんは音も無く道行く人に近づいて、柔らかに響く低い声で静かに語りかける。大抵の男は思わず立ちどまって話を聞いてしまう不思議な力を持っていた。

「珍味のおやじさん、死んじゃったよ」

「えっ、本当?」

「本当だよ。つい先日のことだよ」

「・・・暮れに会った時はあんなに元気だったのに・・・」

「何だか突然のことだったらしいよ」

「そうですか・・・」

 裕三は立ちどまって、どうしたものか少し思案した。気がついてみると客引きのTさんはいつの間にか闇の中に消えてしまっていた。

 珍味はすでに灯りを落として、引き戸は固く閉ざされている。おやじさんの楽しみにしていた、台湾行きはついに果たせなかったかと思うと、裕三の胸は急に痛んだ。目を瞑って店の前でしばらく佇んでいると、真っ暗な店の中から犬の鳴く声がかすかに聞こえてきたような気がした。店は、深い悲しみに、ひっそりと静まり返っているようにも思えた。

        (家族の記憶、第一部へ続く)