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将棋に「最善手(さいぜんしゅ)」という言葉があります。
将棋は決められた形に駒が並べられた状態から、先手、後手、先手……とお互いに駒を進め(指し)て、相手の王を取る(詰ませる)ゲームであり、だいたい80手から120手くらいでどちらかの王が取られ(詰み)ます。
プロ棋士はもとより、上手な方同士の対局ですと、詰みまでの手筋がみえた時点で「負けました」と投了(ゲームセット)を宣言しますので王を取るシーンを見ることはありません。
先手、後手……と指し進んだ中盤、だいたい30手から40手あたりでお互いに「さて、どう指すかな」という局面が出現します。
攻める、攻め筋を増やす、変化をつける、守りを固める、あえてリスクのある手を指して相手に誘いをかける、意外な一手で混乱を誘う。
将棋はサッカーやバスケットボールなどの集団球技に似ている面があると思います。

指し手はキーポイントとなる局面で「最善手は何であるか」を考え、文字どおり最善の一手を探します。
しかしその最善手は、局面によってその意味を大きく変えます。

例えば、相手の王を追い込む手筋がみえた時は、最善手を連続して繰り出して詰み(勝ち)までもっていこうとします。
この手しかない、この手を指すと相手はこう受けるしかない、そうしたら次はこの手を指し……という、文字どおり最善手を連続して指し込んでいきます。

一方で最善手には「相手に投げかける一手」もあります。
「わたしのこの一手に対して、あなたはどう受けますか?」と相手に問いかける手です。
相手は「え?  なんだこの手は?」と考えます。

その一手に対して、守りを固める、主要な駒を逃がす、一旦受けてから攻める、その手には関せず自陣を構築するなど受け手の応じ方は様々です。

人間関係も同じではないでしょうか?

わたしはかつて「将棋には常に最善手があり、最善手を指し続ければ勝てる」と考えていました。
AIはこの理屈ですね。今在る局面から常に最善手を解析します。

しかし、相手があることに対してはいくら自分が最善手を考えたところで限界があり、刻々と変わる局面において常なる最善手などはない!と思うようになりました。

また、大きな飛躍や局面をガラッと展開させたい時は、相手に投げかける手を指し「結果として」それが最善手となるよう、その後の展開を見据えた手をつむがなければならないという考えに至りました。

自分に勝ちに向かうイメージや意図があれば、当然相手にもある。

人間関係、恋愛関係、ビジネスでの成功も同じだと思います。
自分の最善手にこだわりすぎたり、無理に最善手に拘泥すれば、自ら迷い歪んだ結果しか得られません。

また、そういう人は「相手から投げかけられる一手」を打たれると、途端に対応困難になり崩れてしまうことがあるようです。
AIがそうですね。意外な一手、演算困難な一手を喰らうとその後がヘロヘロになることがあります。

最善手を考え、最善手を指すことを常に意識しなければなりませんが、一方でそれにこだわりすぎると自分が意図した結果を生まないばかりか、そこから遠ざかることを理解する必要があると思う和龍です。