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再び漫画『パタリロ』から一題。

ある日パタリロは、過去や未来の出来事を視ることができる「タイムテレビ」を見ています。
歴史の中で埋もれている新事実に考え込んだり、こぼれ話に笑ったり……。
やがてパタリロは自分よりやや年上(15歳くらい?)の少年たちの一団が苦難している姿を見つけます。
ジョゼフという少年をリーダーとする彼らは十字軍の遠征に参加し、エルサレムを目指す道中にありました。
十字軍とは、中世ヨーロッパ(11世紀から13世紀頃)で起こったキリスト教徒による聖地エルサレムを目指す聖地奪還の遠征です。

道中は疲労、日照り、食料不足、病気と艱難辛苦の連続です。
メンバーの少年からは「もうこれ以上進むのは無理だよ……」という意見も出ており、ジョゼフは遠征を諦めかけます。 

終いには奴隷商人に捕まり、腕に焼印を入れられる拷問を受ける羽目に。
絶望の中でジョゼフは神様に「なぜ私たちを苦しめるのですか?」と問いかけます。

これまで少年たちの身に起こったことを全て神の思し召し、運命とばかりに受容してばかりのジョゼフにパタリロは居ても立ってもいられません。

パタリロはタイムワープという術で時空を超え、単身現場に向かいます。
そしてジョゼフに向かって、
「なぜ自分で考えない!」「なぜ自分で行動しようとしない!」と一喝するのです。

自分の身に降りかかることは全て神の思し召しだと、それを運命として甘受するばかり。
なぜそんな状況になるのか、その状況をどうしたらよいかを考えないジョゼフに対してパタリロは怒ります。
自分で考えること、自分で行動することの大切さ、運命とされることが自分を苦しめるものであるならば、それを「書き換えてやろう」というくらいのアグレッシブさを説きます。

信仰は心の安静をもたらします。
信心は人を豊かにするでしょう。

しかし信仰や信心は、ただ神にすべてを委ねることではないでしょう。
自分らしく、よりよく生きるための助けとするものではないでしょうか。

さて、自分では考えず、行動せず、不満ばかりを並べ立てる人がいます。
◯◯が悪い、□□だったら△△なはずなのに、運が悪かった。
終いには国が悪い、社会が悪い、時代が悪いと抽象的なものに責任を転嫁して一時の溜飲を下げる。
国、社会、時代が悪かったら、そこに在る人はみな不幸で不全なはずですが、もちろんそんなことはありません。

各人の与件(学習能力、体力、人間関係、生活環境、資産など)はそれぞれ違います。
生まれながらに恵まれた境遇にある人もいれば、逆の人もいる。

しかし、その与件にこだわって言い訳、言い逃れの理由にしていては、いつまで経ってもその与件の呪縛から逃れることはできません。
その与件の範囲内でしか生きられません。
自ら檻をつくり、自らそこに入り、不平不満を叫んでいる状態です。

「人間は考える葦である」というパスカルの言葉があります。

神様は妄信的にすべてを委ねることなど求めていないはずです。
でなければ、「考える」という能力を我々に授けるはずがありません。

わたしは「なぜ自分で考えない!」「なぜ自分で行動しようとしない!」という言葉から、自ら叱咤して行動していこうと思います。