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わたしが師事するカウンセラーAさんが、ある講演会に行かれた時のお話です。

東京のある小規模なホールで著名な経営者(F氏)の講演会がありました。
小規模といっても100人くらい収容できるホールです。F氏のねらいで、参加者との距離が遠くならないよう、この小規模ホールが選ばれたそうです。

順調に90分の講演が終わり、質疑応答の時間が設けられました。

その質疑応答の中で一人の女性が発した質問が会場を混乱させます。
「わたしはF氏の著書はすべて読み、いずれも何度も読み返している。どの本の何ページに何て書いてあるか暗唱できるほどにです」
「だから、F氏が提唱する経営メソッドはマスターしていると思うし、わたしもF氏が辿った道をトレースすることができると自負している」
「それを自覚したうえでこの講演に来ましたが、すでに著書に記述されていることを繰り返すばかりであり、今日のこの講演の意味を図りかねる」
と、かなり挑戦的な質問だったそうです。

これに対してF氏は、場の雰囲気を汲んで当たり障りのない回答をされたそうです。

うーむ……。和龍だったら、
「コックピットドリルを読んだだけで航空機を飛ばすことができますか?」と答えるでしょう。
和龍はところにより時々短気です。
例えを変えましょうか。
「何冊も医学書を読み込んだり、VTRを視聴すれば国手レベルの手術ができますか?」
そんなドクターの手術を受けるのはイヤだ(-_-;)
「名シェフのレシピを知ったところで同じ味が出せますか?」
「マエストロのCDやMVを嫌というほど視聴したらオケを鳴らすことはできますか?」

誰しも「否!」「断じて否!」と答えると思います。

著書はあくまで「著書」に過ぎません。
読書に分かりやすく伝えるために、言葉を省いたり整えたりします。
ゆえに、細かなニュアンスや文章の揺れのようなファジーな部分を伝えることが難しいと思います。

どのような名著であっても、コックピットの、手術室の、厨房の、コンサートホールの匂いや、温度や、音などを伝え切ることは困難です。

「本を読んだからマスターしている」なんて、その世界の入口に立っただけで分かったつもりになっている。
そんな底の浅さを自ら暴露してしまっているのではないでしょうか。

僭越ながら、わたしは「講師はこうしてつくられる」という記事で、講師養成プロセスの一例を紹介させていただきました。
どんなに良いテキストがあっても良い講義はできません。
先人に倣いつつ、試行錯誤しながら自分なりのスタイルを習得していくのです。
その過程で自分オリジナルのレジュメが熟成されていきます。

そして、何度となく(いや、何百度と)講義に立ちましたが、一回として同じ講義はありませんでした。
事前準備、受講生さんの数、その時の熱気、講師自身のモチベーション、講師が話す時間と受講生さんが考える時間の間合いなどなど……。

すべてが合致した時「今日はいい講義ができたなぁ」なんて少~しだけ満足に耽ることができます。
しかし、すぐに「明日も上手くできるかなぁ」と自問が 始まります。

さて、冒頭のこの女性。小さな成功はするかもしれません。
しかし大成は難しいだろうと思う和龍でした。