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明智光秀です。

和龍が人生の師と仰ぐ明智光秀です!

光秀は美濃(岐阜県)に生まれ、土岐源氏のながれを汲むと伝えられています。
美濃明智庄を治めながらも主君である齋藤家の争乱に巻き込まれ国を追われました。
流浪の中で戦乱の世を憂い、世の中の安寧を願った光秀。

そのためには室町の秩序(武家の頭領として将軍をいただき、規律ある幕府によって世の秩序を保つ)の回復が必要と考えていたとされています。
戦乱の世にあって復古主義のきらいもありますが、京に人脈を有し、有職故実に通じた光秀であれば当然頭に描いたはずです。

織田信長に仕えると数々の戦功を上げ、その信任厚く、所領として近江坂本と丹波国を拝領し善政を布いた名君。
信長は、古参の家臣佐久間信盛を叱責する書状に「第一の功績者は光秀、次いで秀吉。なのにオマエの働きは何だ!」と認めています。
また、家臣で築城(近江坂本城)を許されたのは光秀が初めてなのです。

しかし、本能寺の変を起こし、主君信長を討つも、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、敗走中に土民に討たれたとされる歴史の詳細はここでは割愛します。
一つだけ。わたしは光秀が「自らの天下を欲していた」とする説には賛同できません。
光秀は、自らが信長を討ち、平安な世を整えた後は然るべき者・機関にすべてを譲るつもりであったと推察します。

その光秀の辞世とされるのが、
「心知らぬ 人は何とも 言わば謂へ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」
という句です。

さて、細川ガラシャです。
光秀の三女である玉子は、光秀の盟友であった細川藤孝の子忠興に嫁ぎます。
美貌、教養、家柄、夫からの愛情……、欠けるところのない玉子は幸せな暮らしにありました。

しかし、父光秀の謀反に対して義父である藤孝と夫、忠興は光秀に与しなかったことから、玉子の立場は危いものとなり、丹後の山奥に隠棲します。
同時に夫忠興の心も玉子から離れていき……。
夫忠興はその後複数の側室を迎え、玉子との間にできた子どもたちを疎んだとされています。

玉子はその苦難の中でキリスト教に帰依してガラシャ(「神の恩寵」の意)の名を授けられます。

信仰により、束の間の心の安寧にあったガラシャですが、関ヶ原の戦いがその運命を暗転、ガラシャは自害を選びます。
本能寺の変が起こったのは1582年。それから18年も経っても光秀の娘、細川忠興の妻という呪縛から逃れられなかったのです。

その辞世とされるのが、
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
という句です。

先の、
「心知らぬ 人は何とも 言わば謂へ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」
という光秀の句と句調が似ていませんか?
ちなみにガラシャは父光秀の辞世の句は知り得なかったと思われます。

光秀は愛妻家であり、子煩悩であったといわれています。
自害を決意した玉子(ガラシャ)の胸に父光秀の姿が去来したようで、わたしの心にずっしりと響きます。
(2018年に訪れた福知山城。1579年 明智光秀による築城とされています(天守は復元されたものです))

【追記】
光秀とガラシャの相思は、光秀が本能寺の変を決意した際に戦勝祈願として奉じた連歌、「愛宕百韻」にも通じるところがあり興味深いです。

愛宕百韻
一  ときは今 天が下しる 五月哉    光秀
二  水上まさる 庭の夏山    行祐
三  落つる 池の流れを せきとめて    紹巴
四  風に霞を吹きおくる暮    宥源

愛宕百韻は光秀が信長を討つ意を表したものとも、単に源氏物語などの古典を下敷きとして連歌を楽しんだものともいわれています。
一つひとつの言葉の暗喩・寓意については長くなるのでここでは触れません(様々な解釈がありますからね!)。

ただ、ガラシャの
「散りぬべき 知りてこそ 世の中の なれ 人も人なれ」
という辞世の句に散らされた「時、花、花」という言葉は偶然なのかなぁ……。

歴史ロマンを広げてみたいです☺️