### 前回のつづき ###
谷崎が理想とする愛の形は作品に反映される。
例えば『春琴抄』(しゅんきんしょう)
■ 美しき盲目の琴の師匠・春琴と弟子の佐助。
顔に大やけどを負った春琴は、佐助に顔を見られる
ことを嫌がる。
佐助は自ら両目を針で刺し、愛する人に一生を
ささげることを誓う。
■文豪・谷崎の恋文・・・ 戦時下に守ろうとしたもの
*前回のつづき
『春琴抄』の発表から2年後、2人はついに結婚。
しかし谷崎は、創作のためには普通の夫婦のように
いつも一緒にはいられないと、松子と離れて暮らすこと
が少なくなかった。
そんな2人を時代の荒波が襲う。
昭和16年12月、太平洋戦争が勃発。
松子は谷崎に手紙を頻繁に送り、日常のさまざまな
出来事や変わりゆく生活について細かく伝えた。
●昭和19年 松子より
“こちらはめっきり物資がなくなり、御野菜の配給は
五日に一度という事になりました。
ビタミンC、全然買えなくて困って居ります。”
■こうした毎日の小さな営みの中に意味を
見いだした谷崎。
作風が大きく変わってくる。
『細雪』に描かれた四姉妹の日常生活。
<映画『細雪』より>
“こそばいやないの。
そうやった、私、ビー、足らんやねん。
注射器消毒するように言うて。”
“うん。”
■ビタミン不足を注射で補う姉妹。
花見のために着飾って、季節の味覚を味わう一家。
作品の中には旧家の暮らしぶりが細部に至るまで
描かれている。
谷崎は、戦時下で消えゆくこうした世界を自らの
作品の中で永遠に生き続けさせようとした。
■けれども『細雪』が発表されるまでには、
いくつもの試練があった。
昭和18年、雑誌で連載を始めたところ、作品の
華やかな内容が時局に合わないと掲載中止に
追い込まれた。
当時の心境を谷崎は後につづっている。
“自由な創作活動が、ある権威によって強制的に
封ぜられ、これを是認しないまでも深く怪しみも
しないという一般の風潮が、強く私を圧迫した。”
■それでも谷崎は『細雪』執筆を続け、出来上がると
親しい人たちに私家版として配った。
それが当局を刺激し刑事の来訪を受けた。
“私は留守であったので家人が応対したところ、
今度だけは見逃すが、今後の分を出版するようなこと
があったらどうとかすると言って、脅かしたという”
このとき松子が必死に『細雪』の原稿を守ろうとして
いたことが、今回見つかった手紙から初めて明らかに
なった。
●昭和19年 松子より
“『細雪』、日夜念じて居りましたのに、国家存亡の
際とはいいながら、御心中をおもい、私もまた、
やる方も無い思いに泣いて居ります。
この上は、私の手にて出来る限り写したく、一、二年
全力を注いでみようと存じます。”
■早稲田大学 千葉俊二教授
「ここまで覚悟を決めていたんだなと認識させられる。
自分たちの世界を守って、時代に安易に流されなかった
ということはなかなか難しいことだったと思う。」
谷崎は空襲のたびに「細雪」の原稿を抱えて逃げた。
そして、終戦の翌年。
『細雪』はようやく刊行。
それ以降、谷崎は原稿に何度も手を入れ、書き直し
をやったのだ。
これが日本の近代文学を代表する傑作となった。
(つづく)
(注)来歴等に関する出典はWikipedia他
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