世界を魅了! 三浦環(たまき)の「蝶々夫人」 | キャリア・読書・人生の窓

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汝の一日、かくの如く終れば、汝の一生もまたかくの如し。
そうだ、今日考えたことを書き留めておくことにしよう。

2月22日は日本初の国際的な名声をつかんだ
オペラ歌手・三浦 環(みうら たまき)の
生誕日。
1884年(明治17年)~1946年(昭和21年)



■三浦 環は、日本で初めて国際的な名声をつかんだ
オペラ歌手。
十八番であった、プッチーニの『蝶々夫人』の
「蝶々さん」と重ね合わされ国際的な評価を受けた。



■作曲家プッチーニ自身からも
「世界最高のマダム・バタフライのプリマドンナ
(主役を務める女性歌手)」と絶賛された。
アメリカ、ヨーロッパ、南米の各地で公演を重ね
その回数は2,000回に及んだ。


合格

たまきは明治17年2月22日、東京市京橋区に
生まれた。
3歳の頃から日本舞踊を、6歳の頃から長唄と箏を
各々習い始めた。



その後、虎ノ門の東京女学館に入学。
そこで東京音楽学校(現・東京音楽大学音楽学部)
出身の音楽教師・杉浦チカから音楽家になることを
強くすすめられた。
1900年(明治33年)に東京音楽学校に入学。
ピアノを瀧廉太郎に、声楽を幸田延にそれぞれ師事、
更にはヴァイオリンもアウグスト・ユンケルについて
学ぶ。



1903年(明治36年)7月23日、
奏楽堂に於いて催された日本人の手による初めての
オペラ公演に出演し、成功を収めた。
1904年(明治37年)に卒業後、奨学金を得て研究科
に入ると同時に「授業補助」の辞令を受けて声楽を
教えるようになる。

 

 


その後、助教授となる。
この間に山田耕筰らを指導した。
1911年に帝国劇場に所属して、1912年3月レコード
初吹き込みを行い、プリマドンナとして
活躍を続ける。


1913年に医師の三浦政太郎と結婚した後、
夫とともに1914年にドイツに留学する。
しかし第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリス
に移動する。
ここで、たまきに大きな転機が訪れる。

 

 



(つづく)

 

 



合格


(注)来歴等に関する出典はWikipedia他