「で、舞琴はリストのどの曲が弾きたいの?」
「愛の夢よ」
そう言えば、以前も「愛の夢」も弾けなかった。
なんだか、変な感じだ。
難曲を弾きこなせるくせに、「愛の夢」が弾きこなせない。
「本当に弾けないの?」
「うん……」舞琴は考え込んだ。
「弾けないことはないかも……」
「じゃあ、弾いてみて」
「ママみたいにうまく弾けないんだ……」
「とにかく弾いてみてよ、愛の夢を」
なんでそんなに弾くのを拒むのか……、マリーは疑問に感じてた。
「いいから弾いて」
「じゃあ……」と舞琴は「愛の夢」を弾き始めた。
思ったよりうまい。
取りあえず形になっている。
へたじゃない。
舞琴は「愛の夢」の弾き方はまさに斬新としか言いようがなかった。
「何よ、その弾き方、ジャズじゃないのよ」
目の前で弾いてる姿を見てるはずなのに、指使いがめちゃくちゃだ。
そもそも右手と左手をクロスさせて弾く場所で、右手のパートを左手で弾き、左手のパートを右手で弾いている。
「そっちのほうが弾きにくくない」
「だって、ずっとこうやって弾いてたから……」
「普通に弾けば、舞琴ならもっとうまく弾けるんじゃない」
「そうなんだ……」
呆れてものが言えない。
側に鉄蔵がいて、なぜ注意しなかったのか。
基礎ができてないじゃないの、まったく。
「弾けるじゃない」
「一応ね……」舞琴は不満気だった。
おかしい。
舞琴が自分のピアノの演奏にこんなにハードルをあげてるなんて。
上手な曲も下手な曲も躊躇いなく弾くくせに……。
「ママと比べると、全然ダメ……」
「やっぱり……」
マリーは全てを察した気がした。
リストの「愛の夢」はリストがカロリーネ侯爵夫人に捧げた夜想曲。
舞琴は他にショパンの夜想曲も弾きこなす。
どちらも難曲だ。
そんな難曲を舞琴は弾きこなせるのだ。
それが何を意味しているのか?
この曲をなんど舞琴は聴いてきたのだろう。
それが日常で繰り返された鉄蔵と海音の愛の囁きだとすれば、「愛の夢」を演奏した回数だけ二人は愛を語り合ったことになる。
嫉妬心がマリーの中を駆け巡っていった。
そして地獄のような練習の日々が始まった。
その日から、マリーはチェルニーのピアノ練習曲集を繰り返し、指導していった。
チェルニーは技術の割に基礎ができてないリストを指導したことでも有名。
横につききりで、指使いから教えていった。
それはまさに素人にピアノを教えるようだった。
来る日も来る日もピアノのレッスン漬けになった。
リストのピアノの先生にアマデウスで
モーツワルトのライバルだったサリエリがいる。
しかし天才ピアニストに基礎を叩きこんだのは
チェルニーである。
チェルニーの練習曲は今でもピアノニストのバイブルのようなものだ。