
ラヴェル:ボレロ
:海原の子舟
:古風なメヌエット
:道化師の朝の歌
:亡き王女のためのパバーヌ
:ラ・ヴァルス
指揮:小沢征爾
管弦楽:ボストン交響楽団
CD:ポリドール F28G 22013
今回は、我らがマエストロ・小沢征爾の文化勲章受賞を祝して、30年以上前にボストンで録音(1974年3/4/10月、1975年4月)されたラヴェルの管弦楽組曲をボストン交響楽団の演奏で聴いてみた。小沢征爾の文化勲章受賞のニュースを聞いて「あれ、まだ文化勲章を受賞していなかったんだ」という印象を持った方も私だけではあるまい。それだけ小沢征爾がわが国のクラシック音楽の普及に果たした貢献が大きかったんだと思う。クラシック音楽を聴かない人でも小沢征爾の名前だけは知っている。このこと一つをとっても、いかに大きな影響力を与えてきた人であるかが証明されるのではなかろうか。
ラヴェルは“管弦楽の魔術師”というニックネームを持っている通り、このCDに収められた6曲の管弦楽曲は華やかでオーケストラの持つ魅力を存分に発揮できる曲ばかりで、小沢征爾の得意とする曲目だと安易に聴き始めると一瞬「おや」という気持ちにとらわれる。小沢はこれらの華やかな曲を思い切って絞り込み、スタート当初はオーケストラの手綱を緩めない。そうしておいてクライマックスに向けて徐々にオーケストラを全開させて行き、終盤では小沢独特のドラマチックな輪郭のはっきりしたラヴェル像を描ききる。聴き終わって初めて、小沢の計算しつくされたオーケストラレーションの凄さに感じ入る。小沢は1973年にボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任しているので、このCDはその直後に録音されたもので、それだけに円熟した小沢の指揮振りの一端が窺えるものとなっている。
小沢征爾は1935年に中国の奉天で生まれ、桐朋学園高校および同短期大学の音楽科で母方の遠縁に当たる斉藤秀雄に指揮を学んだ。これが後の斉藤秀雄門下生によるサイトウ・キネン・オーケストラの基になる。最初はピアニストになるのが夢であったが、ラグビーの怪我で止むを得ず指揮者の道に入ったというところが面白い。その後、一人でヨーロッパに渡り、ブサンソン指揮者コンクール優勝、クーセヴィッキー賞受賞、そしてカラヤン主宰のコンクールでも優勝する。1961年にニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任したのを皮切りに、多くのオーケストラの音楽監督を経て、1973年にはボストン交響楽団の音楽監督に就任した。後は皆さんがご存知の通りの世界的な指揮者として輝かしい道を歩むことになる。昔私がニューヨークに行ったときに現地の日本人が「小沢征爾さんのことは我々のすべてが誇りに思っています」と語っていたのを今でも思い出す。今でなら、さしずめ“イチロー”のような存在だった。
私は今、昭和55年(1980年)7月25日発行の新潮文庫「ボクの音楽武者修行(小沢征爾著)」を大切に持っている。この文庫本は小沢征爾が一人でスクーターでヨーロッパを回り、指揮者コンクールで優勝していく様を書き下ろしたものだ。私は音楽の話というより、スクーター一台に乗って日本人の海外旅行がまだ珍しいとき一人で旅するという快挙に憧れを持ち読んだわけである。今見ると口絵には、バーンスタインと肩を組み合ったり、シャルル・ミュンシュと談笑している写真などが載っており、青春の息吹が込み上げてくる。この本の中で小沢は「フランスのブサンソン。ぼくがここへ着いたときには、およそ心細い限りだった。なにしろ日本人は一人もいない町だし、ぼくはどんなことになるか全然予想もつかないでとびこんできたのだから。だが、その町を離れるときには、ぼくは『さあ、これでヨーロッパで落ち着いて勉強できるぞ』と大声で叫びたいような、晴れ晴れとした気持ちだった」と書いている。我々は危険そうだからやらない、誰もやってないからやらない、などやらない理由ばかり先にたつ。小沢征爾はそこのところがまったく違う。今の日本は世界の多くの国に行けるし、行けば現地に日本人がいる。こんな恵まれた環境になったのに毎日不平、不満ばかり言っている。今回の文化勲章受賞で、小沢マエストロの音楽面ばかりを評価する前に、一人の人間としていかに困難を克服してきたかを評価することこそが大切ではないかと思う。(蔵 志津久)