歴史探訪③曹洞宗 長谷寺 真田家菩提寺 真田幸隆夫妻・真田昌幸・真田信繁墓所 | 梓慕情の眼仁奈釣り日記、お散歩日記

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伊豆半島の沖磯で眼仁奈釣りをしてます。
城、神社仏閣、史跡名勝巡りしてます。

真田歴史館・真田氏館跡・御屋敷公園から
、次に行ったのは長谷寺(ちょうこくじ)。

曹洞宗 真田山種月院 長谷寺
天文16年(1547年)、真田幸隆が上州の長源寺から伝為晃運和尚を招いて創建。
開基は真田幸隆。


標高880mある山深い場所なので、桜が咲いていました。


遠路はるばる来てくれたねと言っているかのように桜が綺麗に咲いていました。





本堂




真田幸隆
戦国時代の武将。
信濃國小県郡真田の領主、武田氏の家臣で武田二十四将の一人。

真田家中興の祖。

海野平の戦いに敗北で上野國へ逃亡。
武田晴信の誘いで帰属して旧領回復。
信濃先方衆として、武田軍の信濃侵攻の先頭に立ち砥石城を一日で攻略。第四次川中島の戦いでは、別動隊を率いて上杉謙信の本陣がある妻女山を夜襲。
武田晴信が出家して信玄と名乗ると、幸隆も出家して一徳斎と号する。
天正2年(1574年)5月19日、砥石城で病死。享年62。


真田昌幸
戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。
真田幸隆の三男。
武田信玄、勝頼の二代に仕える。
武田二十四将の一人。
武田家滅亡後に独立。
真田家存続のため、織田、北条、徳川、上杉、豊臣と主君を変え表裏比興の者と呼ばれた。
徳川軍を上田城で二度も撃退。
関ヶ原合戦では、昌幸・信繁、信幸の父子が敵味方になる犬伏の別れで真田家存続の策を計る。
関ヶ原の敗北で上田領没収と死罪が下る。
信幸の舅の本多忠勝の助命嘆願で助命、紀州九度山へ信繁と蟄居。
慶長16年(1611年)6月4日、徳川家康を二度も苦しめた知将が九度山で病死。享年65。


真田信繁
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
真田昌幸の次男、長男は信幸。
真田家存続のため、上杉、豊臣へ人質時代を過ごす。
関ヶ原合戦では、父昌幸と西軍に参加。
敗北後、父昌幸と紀州九度山へ配流。
慶長19年(1614年)豊臣と徳川の関係悪化で、九度山を脱出して大阪城へ入る。
大阪冬の陣では、真田丸を築き徳川軍を撃退。
大阪夏の陣では、徳川家康本陣に突撃、馬印が倒された家康は自害を考える。
家康への援軍が真田隊を押し返し、遂に真田信繁の命運が尽きる。
慶長20年(1615年)5月7日、討死。享年49。
徳川家康に、日本一の兵と評される。


真田幸隆夫妻・真田昌幸墓所。


真田幸隆(中央)、幸隆夫人(左)、真田昌幸(幹)

真田信繁供養塔。

五円硬貨六枚を、真田家の家紋六文銭にしました。

御朱印

手ぬぐい



この日、法事の最中で本堂見学が出来なかったけど寺関係者の書き置き御朱印の対応に感謝します。
また手ぬぐいと、パンフレットを頂き改めて感謝します。

続く