今日は、戦国最強騎馬軍団を率いた甲斐國の戦国大名 武田信玄公の生誕日。
改めて武田信玄とは…
武田晴信(信玄)
甲斐源氏嫡流、甲斐武田家第19代当主。
大永元年(1521年)11月3日、甲斐國守護・武田信虎の嫡男として生まれます。
生誕地は、要害山城か積翠寺と言われます。
2018.5.6 ブログ参照して下さい。
2018.5.15 ブログ参照して下さい。
天文5年(1536年)に元服、室町幕府第12代将軍足利義晴から晴の偏諱を賜り、晴信と改めます。
父信虎を駿河に追放して、武田家第19代目の家督を継ぎます。
天文23年(1554年)甲相駿三国同盟を締結。
甲斐の武田は、信濃侵攻へ。
相模の北条は、関東支配へ。
駿河の今川は、尾張侵攻へ。
同盟により、三国はそれぞれ有利に戦が出来ます。
信濃へ侵攻を開始、諏訪氏・村上氏・小笠原氏と戦い北信濃の一部を除き平定。
越後の長尾景虎(上杉謙信)と、5回に渡り川中島の戦いが行われます。
中でも、永禄4年(1561年)第4次の戦いは最大の激戦となります。弟信繁、軍師山本勘助が討ち死に。
西上野侵攻、飛騨國内紛介入、越中國介入し領土拡大します。
西上野辺りは、何となく知っているけど飛騨・越中の事は知りませんでした。
永禄3年(1560年)同盟関係の駿河國の今川義元が、桶狭間の戦いで尾張國の織田信長に敗れ討ち死に。
これを契機に、武田信玄は駿河國侵攻へ。
念願だった海を得ることに成功。
甲相駿三国同盟が破綻。
更に遠江國にも侵攻、三河國の徳川家康と遠江分割をするも対立。
北条氏の本拠地、相模國小田原城を攻めるも撤退。
甲斐國へ戻る途中、三増峠の戦いがありました。
その後は再び、北条氏の領国である伊豆國韮山城を攻めるも落とせず。
この時代は、生き延びるため隣国と同盟したり、破棄したり、敵だった國と同盟したりと外交面で策略を練りました。
一時期、尾張國の織田信長と同盟していました。信長の比叡山延暦寺焼き討ちにより、同盟破綻。
室町幕府第15代将軍足利義昭の、織田信長討伐令に呼応。(信長包囲網)
西上作戦を行い、相模國の北条氏と再び同盟。
元亀3年(1572年)武田信玄は本隊・別働隊合わせ2万2千の軍勢を率いて甲府を発ちます。別働隊には山県昌景、秋山虎繁が3千の軍勢で三河・東美濃に侵攻。
信玄率いる本隊は、遠江二俣城を包囲落城に成功。
別働隊が本隊に合流し二俣城から南下、家康の居城浜松を包囲しないで西進。
家康は、城から追撃すると三方ヶ原で武田軍は戦闘態勢に…
三方ヶ原の戦い
信玄の策略に落ちた家康軍は、壊滅状態になり家康は姿を変えながら浜松城に敗走。
武田軍は、東三河に侵攻するも信玄の病状悪化で西上作戦を中止。
突如、武田軍は甲斐國へ撤退。
元亀4年(1573年)4月12日、信濃國伊那駒場にて病死。享年53。
あまりにも早い死に衝撃を受けます。
当時は、人生50年と言われてたので妥当なのかな…
でも信玄の死は惜しい。
あと5年生きていたら、歴史は変わっていたかも知れない…
2020.4.12 ブログ参照して下さい。
信玄が、北信濃侵攻のために整備した棒道
↓
2021.7.30 ブログ参照して下さい。
信玄が、行った治水事業
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2017.5.5 ブログ参照して下さい。