曹洞宗 次元寺 武田四天王 鬼美濃の墓所 | 梓慕情の眼仁奈釣り日記、お散歩日記

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躑躅ヶ崎館から、進路を西へ…
次元寺に行きました。
なぜかと言うと、武田四天王の一人 馬場信房の墓所があるからです。
静岡は吉田町にある小山城に行った時に、山梨は北杜市にある次元寺の新聞記事が貼ってありました。
前に、この近くまで来ていたのに知らなかったのです。

馬場信春が、築城に関わった小山城については、下記ブログを参照して下さい。
※2020.2.28 小山城 武田と徳川の攻防戦

総門









曹洞宗 白砂山 次元寺
武田四天王の一人 馬場信房により開基。

馬場信房
武田信虎、信玄、勝頼の三代に仕えた武田家の重臣。70回を越える戦いに参加し、長篠の戦いまで過擦り傷一つ負わない。
不死身の鬼美濃、不死身の馬場美濃と恐れられる。
軍師山本勘助から築城術を学び、静岡県内には江尻、諏訪原、田中、小山と築城。

元は甲斐国教来石村(北杜市白州)に住んでいたので教来石氏を名乗ります。
今も、国道20号線を甲府から長野方面に行くと、上教来石・下教来石の地名があります。

信虎の時代は、武川衆の一員。

信玄の時代に武功を挙げ、侍大将になり教来石景政から馬場氏の名跡を継ぎ馬場信房と改名。
川中島の戦いの後、美濃守の名乗りを許され馬場美濃守信春と改名。

勝頼の時代になると、山県昌景と重臣筆頭として補佐するも疎まれる。
天正3年(1575年)5月の織田・徳川連合軍との長篠の戦いで勝頼に撤退を説くも聞き入れられず敗北。
殿を務め、勝頼が撤退したのを見届けると追撃する織田軍に突撃し討ち死に。
この時まで、無傷だったと言われてます。
馬場信春の最期を、織田信長は[馬場美濃守手前の働き、比類なし]と評しています。
長篠の戦いでは、信玄時代からの重臣が相次いで討死しています。





花菱


本堂を見学させてもらいました。
住職から、撮影可能と言われたので撮影しました。
※本堂の中は、撮影禁止の寺院もあるので必ず確認しましょう。

住職から馬場信春の話しが聞けました。
忙しい中、ありがとうございます。



御本尊

武田四天王
馬場美濃守信春墓所

蝉の脱殻見つけました。

御朱印



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        続く