曹洞宗 城願寺 土肥一族墓所 | 梓慕情の眼仁奈釣り日記、お散歩日記

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伊豆半島の沖磯で眼仁奈釣りをしてます。
城、神社仏閣、史跡名勝巡りしてます。

曹洞宗 城願寺に行きました。
平安時代より、密教の寺院であったものを土肥実平が万年の世までも家運が栄えるようにと、万年山と号し建立。
その後、曹洞宗に改宗する。

参道

山門





びゃくしん
国指定天然記念物
樹齢900年


源頼朝が腰掛けた石

七騎堂
源頼朝が、源氏再興の旗挙げをし石橋山の合戦で敗走。
真鶴から船に乗り安房へ落ち延びる。
このとき、同船した頼朝以下、土肥実平・安藤藤九郎・田代冠者・土屋三郎・岡崎四郎・新開荒次郎の主従七騎の木造を安置。
毎年4月の第一日曜日の土肥祭り・源頼朝旗挙げ行列開催のみ公開。






本堂





土肥一族墓所




小早川祖と書いてあります。

中央に実平、左側に実平の妻、中央右側に遠平と妻の墓。





御朱印して貰いました









土肥氏は、小田原にも領地があり実平の嫡男遠平は小田原早川荘からとった小早川を名字とする。
遠平の嫡流は土肥を名乗り、庶流は安芸国の領地を継ぎ小早川と名乗る。
土肥氏は頼朝の死後、謀反に加担し没落。
安芸国の小早川氏は、西国で勢力を固め山陽の武家となる。
土肥一族が、再び備前の領主に返り咲くのは関ヶ原合戦後。
宇喜多秀家に変わって、小早川秀秋が備前・美作の領主になる。
秀秋の死後、鎌倉以来の名門小早川家は断絶。
*小早川秀秋、豊臣一門だったが関ヶ原の戦いでは、裏切り東軍に付く。
西軍の亡霊に悩まされ死んだとも言われる。

湯河原の土肥氏が、戦国時代の小早川だと初めて知りました。


                                    続く